『中勘助随筆集』より 「小品四つ」など

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中勘助の話のつづき。「何ということのないものをこまごまと綴った」と書いたけれど、この「こまごま」の書きぶりは尋常ではない。どの作品のどの部分にも手ざわりが感じられる描写がある。例えば、「小品四つ」から引いてみる。

《ここにあるひとたばの折紙はなつかしいそのおりの残りである。藍や鶸や朽葉など重なり合って縞になった縁をみれば女の子のしめる博多の帯を思いだす。そのめざましい鬱金はあの待宵の花の色、いつぞや妹と植えたらば夜昼の境にまどろむ黄昏の女神の夢のようにほのぼのと咲いた。この紫は蛍草、蛍が好きな草ゆえに私も好きな草である。私はこんなにして色ばかり見るのが楽しい。じっと見つめていれば瞳のなかへ吸い込こまれてゆくような気がする。ようやく筆の持てる頃から絵が好きで、使い残りの紅皿を姉にねだって口のはたを染めながら皿のふちに青く光る紅を溶して虻や蜻蛉の絵をかいた。そののちやっとの思いで小さな絵具箱を買ってもらい一日部屋に閉じこもってくさ草紙の絵やなど写したが、なにも写すものもなく描くものも浮んでこないときは皿のうえにそれこれの色をまぜてあらたに生れる色の不思議に眼をみはり、また濃い色を水に落して雲の形、入道の形に沈んでゆくのに眺め入った。》(p29「小品四つ 折紙」より)

うつくしいものに対する感覚が鋭すぎる人は、現実の世界では生きづらいのではないか、人格のどこかにバランスを欠く部分があるのではないか、と、つい、下世話なことを思ってしまう。そんな余計なことを考えながら読んでいたら、本人がちゃんとそのことについて触れていた。以下引用。

《そうしてふと幼少の折のことを思いだした。そのじぶん私はあまりに美しいものの刺戟に堪えかねて――その息のつまりそうないらだたしい悩を今も感ずる――それを無茶苦茶にしてしまうことがよくあった、たとえば草双紙の絵を墨で塗りけしたり、麦藁細工の綺麗な箱を踏み壊してしまうというように。そしてこの頃でさえも私の五感はそれが謂う所の快感を齎す場合のみを考えても已に大きな重荷である。もしこのうえなにかの感官があったら私は感覚に殺されてしまうであろう。》(p87「貝桶」より)

写真は宇治上神社にて。
by konohana-bunko | 2009-03-20 22:46 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり