『森の生活 ウォールデン』上・下 H.D.ソロー 

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『森の生活 ウォールデン』上・下 H.D.ソロー著 飯田実訳 岩波文庫

タイトルが気になって、ちょっと読んでみたいな、と思いながらずっとほっぽっていた本。どこで買ったのか思い出せない。思い出せない時は大概心斎橋のブなので、これもそうかもしれない。この岩波文庫には、ウォールデンの森や湖のモノクロ写真も入っている。この写真の入り方が、過不足なく、説明に陥っておらず、とてもいいと思う。

この放置本を読めたのは、玉城徹の『近世歌人の思想』(不識書院)、橘曙覧の章に、ソローが出てきて後押ししてくれたから。以下、『近世歌人の思想』から引用。

《ソーローは妻子などもたなかった点で、曙覧と条件がいたく異なっているが、しかし、この相違は基本的なものではない。ほとんど魂の衛生学とよんでもふさわしいほどに、感情の幸福を、あくまでも清潔に、個のものとして保ってゆこうとする点では、二人は驚くほどよく似ています。

  時々、夏の朝、いつでも水浴をすませたあと、日の出から正午にいたるまで、わたしは日あたりのい戸口で想いにひたって坐りこんでいた。松やサワグルミやウルシのただなかで邪魔するもののない孤独と静寂の中で。

  たのしみは艸のいほりの筵敷ひとりこころを静めをるとき

こう並べてみれば、ソーローの文章は、曙覧の歌の詞書きとしても差しつかえがないほどです。ペルリ提督の艦隊が、間もなくおし渡ろうとする太平洋を隔てて、孤独な二つの☆が、みずからは知らずに、照らし合っているように見えることは、わたしたちの心に不思議な感慨をもよおさせるでしょう。静寂と瞑想とを好む、この二つの精神が、その純粋さのゆえに、一種の狭さ、もしくは微弱さを露呈しなければならなかったことは、やむを得ないことなのです。それは、精神の弱さに由来するものではありません。ただ彼らの精神が「地獄」とは無縁であったことを証するものなのです。》(p276-277 「第7章 曙覧文学の史的位置」より)

こんなふうに書き写していたらまた玉城徹が読みたくなってきた。

いや、ソローの話。『森の生活』上巻より、以下、(ああ、ええなあ)と思ったくだりを引く。

《私はかつて、三つの石灰石を机の上に置いていたことがある。だが、心という家具のほこりはまだまったく払っていないのに、これらの石ころのほこりは毎日払わなくてはならないことがわかって恐ろしくなり、いや気がさして窓のそとへ投げ捨ててしまった。こんなありさまだから、私に家具付きの家などもてるはずがあろうか?私はむしろ戸外に座っていたい。人間がそばで土でも掘り返さないかぎり、草には塵ひとつつきはしないのだから。》(p69「経済」より)

《私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。生きるということはそんなにもたいせつなのだから。また、よほどのことがないかぎり、あきらめるのもいやだった。私は深く生きて、人生の精髄をことごとく吸いつくし、人生といえないものはすべて壊滅させるほどたくましく、スパルタ人のように生き、幅広く、しかも根本まで草を刈り取って、生活を隅まで追いこみ、最低の限界まできりつめてみて、もし人生がつまらないものであることがわかったなら、かまうことはない、その真のつまらなさをそっくり手に入れて、世間に公表してやろうと考えたのであった。》(p162-164「住んだ場所と住んだ目的」より)
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《家事などは楽しい気晴らしであった。床が汚れてきたら、朝早く起きて、家具やもとより寝具や寝台架も一括して戸外の草の上に運び出し、床に水を流してから、その上に湖の白い砂をふりまき、それから箒で床が白くなるまで掃き清めた。こうして村びとたちが朝食を終えるころには、朝日がすっかり小屋を乾かし、ふたたび屋内にはいれるようになったので、私の瞑想がさまたげられるようなことはまずなかった。家財道具のいっさいが、まるでジプシーの荷物のように草の上に小さく積みあげられ、本やペンやインク壺をのせたままの三脚机がマツやヒッコリーのなかに置かれているのを眺めるのは楽しかった。彼らはまるで戸外に出ているのがうれしくて、なかに運びこまれるのをいやがっているように見えた。ときどき私は、その上に天幕を張って一緒に座っていたいような誘惑に駆られたものだ。こうしたものの上に日が照り輝くのを見たり、風が吹き渡っていく音を聞いたりするのはすばらしかった。日ごろ見慣れたものも、屋内ではなく屋外に置かれると、ずっとおもしろみが出てくる。小鳥が一羽、隣の枝に止まり、ヤマハハコがテーブルの下に生え、ブラックベリーの蔓がその脚にまつわりついたりする。マツカサ、クリのいが、ストローベリーの葉が、あたりいちめんにちらばっている。こうしたもののかたちが、テーブル、椅子、寝台架などに模様として刻まれるようになったのは、もともと家具類がこんなふうに森の中に立っていたからではないかという気がした。》(p205-206「音」より)
by konohana-bunko | 2009-04-21 23:12 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり