『あまりに野蛮な』から 1

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『あまりに野蛮な』 上・下 津島佑子 講談社 (2008)

『あまりに野蛮な』は、1931年(昭和6年)に、高校教師の妻として台北に渡った美世=ミーチャと、現代に生きるミーチャの姪の茉莉子=リーリーのふたりの物語である。
リーリーはミーチャが亡くなってから生まれたので、ふたりに面識はない。リーリーの母の遺品の中から出てきた、母の姉ミーチャの手紙、ミーチャが夫の明彦に書き送った手紙から話が進んでゆく。
ミーチャは明彦への思いを押し通して結婚にこぎつけ、夫の赴任先である台湾に渡るのだが、そこで産んだ子を失い、夫・姑との関係、台湾での生活の厳しさと病に精神のバランスを崩してゆく。交通事故で子を失った経験を持つリーリーは、ミーチャの手紙を持って台湾に行き、ミーチャの生の軌跡をたどりつつ、自分の魂の再生へ、「生きる、生き続ける」ことへの出口を探ろうとする。
強引に要約するとそういう小説になるが、津島佑子の文章のよさは、筋や理屈が朦朧とし、生理的な感覚や動揺する感情があふれでてこちらに押し寄せてくるところにある、と、わたしは思う。その押し寄せがちょっと怖ろしいような、でもそれに揺さぶられてみたいような。
読後感は、ほぼ期待通りだったとは言える。しかし『ナラ・レポート』では少年森生が現実や運命に対して反抗する姿があり、母の愛を渇望しつつついに母の存在を押しひしいで生きる=成長する姿があり、その部分があることで読み手=わたしも溜飲を下げることができたのだが、今回はそうした強い生命力を持ったこどもは現れない。主人公ミーチャが置かれた状況の息苦しさが、やや重く残ってしまった。

もうひとつ、わたしがこの小説を読みたいと思った別の動機がある。昭和のはじめ、日本の植民地だった台北の様子がどんな風に描写されているのか、興味があった。
以下引用。

《北京語の聞こえないタイホク、そこには着物をぞろりと着た日本人の女たちがいくらでも歩いていて、洋服姿の若い女たち、子どもたちも元気よく行き交っていただろう。男たちも地位が高ければ、鼻の下にひげを生やし、麻の背広を着て、パナマ帽やらソフト帽、あるいは軍帽の男たちも歩いていただろうし、学生帽の生徒たちも多かったろう。一方では、鳥打ち帽をかぶり、下駄に着流しで歩くような男たちもいたにちがいない。大工や植木屋などの職人や車引きなどは、内地と変わらない作業用のスタイルを守っていただろう。
タイホクの町には、さらに、伝統的な絹のチャイナ・ドレスを着て、髪には金の装飾品や香りの高いジャスミンの花をあしらった金持ちの本島人女性たちの姿――本当の上流女性はめったなことでは邸宅の外に姿を現さなかったらしい――も見られたし、もっと質素で、ゆったりしたスタイルの台湾服を着た老人や子どもたちの姿も、「リーヤ」と日本人たちが呼んだ「労務者」の姿も、あるいは、ウナギを意味する「ローマー」という名前で呼ばれた「ごろつき」の姿も、道を歩く人々のなかに混じっていたのだろう。
リーヤや農民たちの頭は、頭のとんがった竹の皮の笠で強い日差しから守られていた。今でも車を引いてサトウキビやピーナツなどを売る人たちとか、道の清掃をする人たちはその笠を頭にのせている。軽くて、頭が蒸れずにすむので、たぶん、どんな帽子よりもこの土地では使い心地がいいのだろう。また、本島人の多くは下駄やゾウリなどは履かなかった。つっかけのような簡単な履き物を愛用しつづけた。》(上巻p104-105)

わたしの母方の祖母は、竹富島出身の人である。島で結婚し、こどもももうけたが、その結婚を解消して単身台北へ渡った。なぜ島を出たのかは知らない。
祖父は、広島の中山間地域の農家の出身で、丁稚奉公で商売を覚え、台北で質屋を始めた。祖父と祖母は、祖母が仲居として働いていた料亭で知り合ったのだという。
昭和6年にミーチャが見たタイホクは、昭和10年頃祖父母が見た台北と、ほとんどかわりなかったのではないだろうか。
by konohana-bunko | 2009-09-08 22:46 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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