『あまりに野蛮な』から 2

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祖父の質店は、台北市新富町というところにあった。羽振りはよかったらしい。白い帽子に三つ揃えを着た祖父の写真を母から見せてもらったことがある。
昭和13年、長女として母が生まれた。つづいて弟が二人、妹が二人。

《ミーチャが子どもをタイホクで産み育てれば、その子どもは「湾生」と呼ばれることに決まっていた。本島人の女性が内地人と結婚すれば「湾妻」と呼ばれた。長いあいだ、台湾に住みつづければ、内地人の顔の色は黒くなるのではなく、黄色みが濃い「台湾色」に変わると言われた。日本語もしだいにいい加減になっていくし、家庭料理も「台湾味」に変わっていく。内地は深刻な不況で、職を求めて内地から台湾に渡ってきても、大陸から出稼ぎに来るシナ人に押され、貧しい内地人は仕事にありつけず、果ては「ルンペン」になって、新公園や植物園に数多く住みついた。そんな内地たちと、学校の教師や役人、軍人として台湾に赴任した内地人たちとは、決して同じ内地人ではなかった。》(上巻p106-107)

ならば母も湾生ということになるが、わたしはこのことばは耳にしたことがない。
祖父一家にとって、台北で暮らした日々――それがいつからだったのかははっきりわからない――は、人生の黄金時代というべきものだった。石造りの店の奥に家があり、家には女中さんや子守さんが何人もいた。着物もいつもいいものを着せてもらった、食べ物は、台湾で手に入るものでよければふんだんにあった、何不自由ない暮らし。
大きな台風が何度もあった。台風が来ると床上浸水するので、質草はすべて上の階に移動させる。がらんとなった水浸しの店で、こどもたちは普段登ることを禁じられている、天井に届きそうな高い棚によじ登って遊んだ。
その後、祖父は兵隊にとられたため内地に戻り、上官に殴られて聴覚を失った。家族は台北に残ったが、戦況が悪くなった。空襲で両隣の家は吹き飛ばされ、建物も人もこっぱみじんになって大きな穴だけが残った。以来祖母は飛行機を非常に怖れるようになった。

戦争が終わり、家族は祖父の郷里へ引き揚げた。以来、祖父も祖母もふたたび台湾の地を踏むことはなかった。晩年の祖父は、美味しいバナナが食べたい、とよく言っていたそうだ。

写真は神戸にて、風見鶏の館の書斎。
by konohana-bunko | 2009-09-10 22:50 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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