『ピクニック、その他の短篇』  金井美恵子

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『ピクニック、その他の短編』  金井美恵子  講談社文芸文庫

どこで買ったのか思い出せない。心斎橋のブかも。
素直に面白いと思えた作品と、読むのが面倒くさくてイヤになる作品と半々だったので、今回は「きちんと一冊読み通しました」と胸を張れそうにない。
「桃の園」「家族アルバム」がよかった。「豚」は傑作。



以下、引用するのは「月」という作品から。母親から「鳥を一羽とキノコ一箱を買ってきて」と頼まれた少年が、ひとりで夜の商店街を歩くシーン。

《商店街のほとんどの店はあかりを消して、入口のガラス戸や、昼の間は玩具や流行の婦人服や花の飾ってある明るい飾り窓にはカーテンが引いてあったが、どの店のガラス戸も二、三十センチほどずつ開いていて、青と白の縞柄の、丈の縮んだようなカーテンが風でふくらんだり垂れさがったりしながら規則的に揺れている。どの店の入口でもカーテンが風に吹かれて揺れ、時々風が強く吹くと、風を孕んだカーテンの布が重いガラス戸の間から、道のほうへ大きく翻って軽い心地のよいはためきの音をたて、また急にうなだれたように力を失ってガラス戸の間に吸い込まれる。》(p67)

《それからわたしは歩く速度を落し(というより立ち止まって)、商店街の黒い家並の間から丸いなめらかな月が昇りはじめ、微細な網目のように半ば被さっていた水色の薄雲が夢の速度で月の周囲に流れて薄紫色に輝くのを見た。そして、まるで唐突に、まるで頭の血液がいっぺんに退いていく時の落下と上昇の感覚が同時におこる眩暈のようにして、ひとつの考えが閃く。この今わたしが見ている月は、はじめて見る月であり、同時にこれを見るのは今が最後なのだ、という考えが浮んだ。それから、そう考えたこの今の瞬間が、他の多くのことと同じように忘れ去られてしまうだろうと考えて無性に悲しくなった。それとも、いつかこの今の瞬間、今こうして見ている月と、この道と、風と、こうして今わたしの感じているすべての感覚を思い出すことがあるだろうか。この今の瞬間から、瞬間ごとに遠ざかっているのだという思いがわたしを苦しめた。時間というものが止ることなく流れつづけ、すべてのことを取り返しようもなく過去のものにしてしまうという思いが、歩く足の一歩一歩を重くした。それでも、わたしは決してこの瞬間のすべて、この夜見たものと考えたことのすべてを忘れないでおこうと願った。歩いて来た道をふり返って、店の戸口ごとに翻るカーテンのふくらみを見つめ、夏の午後のプールの帰りのけだるい路地の夢を反芻し、その大半のイメージをすでに忘れかけていることに気づき、あわててもう一度長い商店街の人気のない通りのすべてを記憶にとどめようとして見つめるが、その間に、なめらかな黄色の丸い月は家並の上で位置をわずかずつ変えてしまいそうだし、霞網のような薄紫に光っていた雲は、ずっと遠くのほうへ流れて、灰色がかった靄のようにかすんでしまっている。》(p69-70)

引用終わり。



引用した文章を読んでいて、思い出したことがある。例えば――小学生の頃、自分は物書きになりたいと思っていたこと。ある日、虫取りをしていた草っ原で溝にはまり、胸の高さに見下ろしていたおびただしい草の穂が、一瞬にして頭上に覆いかぶさり、周囲の景色も一緒にいた友達もみんな消えてしまった(ように感じられた)ことなどを、すりむいた脛の痛みをこらえつつ(絶対に忘れたらあかん、いつか書かなあかんねんから)と思ったりしたことなどを。一体どうして物書きになりたいなどと思っていたのだろう。百歩譲って、こんなことを仮に書いたとして、誰が読んでくれると思っていたのだろう。その頃わたしは自分の願いに何の疑いも持たず、溝の底に棒立ちになって、草の芒が白く光っていたことを、必死に「覚えておこう」としていた――。
こんな過去の記憶というのは、かなり恥ずかしく、普段は決して思い出さないようにしているのだけれど、金井美恵子の文章に、うかうかと引き出されてしまった。
案外、ものを書こうと志向する人はみな、《この瞬間のすべて、この夜見たものと考えたことのすべてを忘れないでおこう》と思う性質を持っているのかもしれない。(忘れやんとこ、忘れやんとこ)とくだらない記憶を大事に抱え込んでいるこどもはどこにでもいるのかもしれない。
そしてあの日(忘れやんとこ)と思った草の匂いや日の光、ひとつひとつ思い出すことも叶わない記憶の重なりが、今から自分が書こうとする歌の一片にでも生きて顕れることがあるのなら、あながち愚かな無駄だったとはいえないのかもしれない。

夏草を漕ぎ分けてきた耳だつた風に無数の傷をもらつて  あとり
Commented by つぼ at 2009-09-21 22:01 x
「・・・絶えざる判断の鍛錬は、行動家が耐えなばならぬ永い緊張と集中の時間を暗示している。行動家の世界は、いつも最後の一点を付加することで完成される環を、しじゅう眼前に描いているようなものである。瞬間瞬間、彼は一点をのこしてつながらぬ環を捨て、つぎつぎと別の環に当面する。それに比べると、芸術家や哲学者の世界は、自分のまわりにだんだんひろち同心円を、重ねてゆくような構造をもっている」三島由紀夫
昔、読んだ一節を思い出したので、本棚からひろってきました。
Commented by konohana-bunko at 2009-09-22 11:24
つぼさま ありがとうございます。なんとなく、バームクーヘンを想像してしまいました。つまらない過去も、腐らないうちに何かの役に立てばいいのですが。
by konohana-bunko | 2009-09-21 12:22 | 読書雑感 | Comments(2)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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