『セレクション柳人6 小池正博集』  邑書林

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『セレクション柳人6 小池正博集』  邑書林

「レ・パピエ・シアン」と「かばん関西」の合同歌会を新大阪でやった時、小池さんも来て下さったことを思い出す。2003年頃だったか。

川柳の句集を読むのははじめてかもしれない。以下引用。



     第一章「部屋さがし」より

貝ひろい妖精たちの罪つくり
夏草を刈る夏草の関係者
合併はいつも笑顔で来迎図
魂の回文となる魚市場
チケットを買い取りますと贋勅使
太陽の塔をくすぐる猫じゃらし

     第二章 連作川柳篇より

     「羽人羽化」
すみませんすみませんと一面の花

     「天神祭」
大川黄昏どんどこ船の少年期

     「鳥」

セーターに鳥を殺してきた匂い
一日が燃える匂いのする巣箱

     第三章 「雲に手錠を」より

机から紙のライオン家出する
豆のさや剥けば商都の青い空
一家団欒さっき踏絵を踏んできた
綿菓子をなめている藤原氏

     第四章 十四字 「鳥の素顔」より

琥珀の中で百年を待つ
牛車をとめて雑談をする
埃の方へ飴は転がる
まずおしぼりをもらう残党




巻末の散文集より引用。

《さて、「赤黄男俳句と川柳」で重信は「誤解」と「俗解」について述べている。言語表現は多様で多彩な「誤解」を生み出すことによって創造性を発揮するが、言葉が早々と「俗解」に拘束されてしまうと、もはや新しい「誤解」を生み出すことができず、二流の作品に堕してしまうというのだ。重信はこのことをさらに「言いとめる」「言い終わる」という表現で次のように言い換えている。「何ごとかを言いとめるとともに、あわせて、何もかも言い終わってしまったような作品」は二流の薄っぺらな表現であって、逆に、「見事に何かを言いとめながら、しかも、その表現の向う側に、具体的には書かれなかった何かが、どことなく見えているというような作品」が望ましい。後者には「誤解」を限りなく生み出してゆくパワーがあるからである。」
(中略)
重信は季語について、次のように述べている。
「本来、俳句の、いちばん基本的な方法は、かならず季語を提示することによって、いつの間にか季語の中に蓄積されてきた、広く共通普遍な概念を、まず、読者に強く喚起しておき、そののち、急激に、その概念を打ちやぶるような、いわば奇襲的表現を叩きつける仕組みであった。間もなく打破さるべきものとしての一種の既成概念を、作者みずからが、あらかじめ読者に提供しておき、そこから、如何に巧みにずり落ちてみせるかというところに、俳諧の味を見出していたのだ。そして、季語とは、もっとも美しく練られた既成概念の典型であった」
そして、重信は川柳の「うがち」もこの「ずり落ち」の一種だと見なしている。》(p95-96「季語と普遍性――高柳重信の川柳観」より)
by konohana-bunko | 2010-03-02 21:33 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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