九月の歌は雨がうたう

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九月の歌は雨がうたう           十谷あとり

九月某日、緑色の地下鉄に乗って西へ向かった。
大阪港駅で降りると、むん、と、暑さが来た。潮の匂いと雨の匂いがする。家を出た時より雲が低い。
人通りの少ない平日の港通り。まっすぐ行けば中央突堤、右に曲がれば天保山公園、水族館。レゴで組み立てたような水族館は大好きな場所だが、今日は左へ曲がる。
通りの南側には、埋立地の上に開けた、昔ながらの街並みがあった。船員病院、商店、銭湯、小学校、4階建ての市営住宅。住宅のベランダで洗濯物が揺れている。階段の下にこども用の自転車、空き地を囲った花壇にはアロエ、フェンスにはゴーヤ。他の植物もあるけれど、勢いがない。アロエとゴーヤだけが猛然と繁茂している。
家並が途切れ、岸壁に出た。橋の低い欄干に手をついて、下を覗いてみる。古タイヤが規則正しく吊されたコンクリートの壁に、蛎殻の帯が見え、その下に暗緑色の水が波うっていた。
この暗い色の海を見たいと思ってここまで来たのだった。

折角海を見に来たのに、五分後、雨がはげしく降ってきた。傘を持っていなかったので、近くの建物に雨宿りに入った。白くて大きな箱のような建物。商業施設かと思ったら、海運倉庫を改装したギャラリーだった。
中は空調がよく効いていて、雨と汗で濡れた背中が寒いくらいだった。何の予備知識もなく入った最初の展示室には、油彩の抽象画がかかっていた。雑誌を飛ばし読みするように、絵の前を進んだ。
次の展示室で、足が止まった。四面の壁に、A4ほどの紙が貼りめぐらされている。間隔を置いて横一列に貼られているもの、すき間なくびっしりくっつけてあるもの、並べ方に違いはあるが、どれも同じ、茶色く灼けた紙である。近づいてみると、一枚一枚、鉛筆で英文がびっしり書かれている。――これは一体、何だろう。
入口に戻って、壁の解説を読んだ。英文なのでくわしくは判らなかったが、この展示がアメリカ人のインスタレーションだということはわかった。これは手紙なのだという。それも、離婚した妻に引き取られ、離れて暮らす息子に宛てた手紙。 正確にいえば、息子に送った現物ではなくて、その手紙を模して――実物通りの文面で――作った作品なのだという。
紙に「古し」がかけられているから、鉛筆の細い文字は読み取りにくいが、確かに、何枚かに一枚は Dear の文字から書き起こされている。
白くて広い部屋に、茶色い手紙が張り巡らされているだけ。ただそれだけなのに、読めない手紙はしずかな圧でわたしに迫ってきた。眺めていると、いろんな疑問が頭を巡った。(何年手紙を送り続けたのだろう?)(返事は来たのだろうか?)(手紙を通して、彼らの関係は変わったのだろうか?)
具体的なことはわからなかった。ただ、今はもう彼らの間に、何か答えのようなものは出ているような気がした。たぶん、何かが「済んだ」から、父親は私的な手紙を作品として再生産したのではないだろうか……。
そんなことをあてどなく考えていたら、思いがけず長い時間を過ごしてしまった。しかしなぜか、気分がすっきりした。
ギャラリーを出ると、雨は止んでいた。外は一層蒸し暑かった。駐車場の舗装の上に、いくつも水たまりができている。さっき渡って来た大きな道路の路肩にも、雨水が溜まっていた。港でコンテナを外し、頭部だけになったトレーラーが次々とやってきて、水を跳ね上げ、ものすごい勢いで走り去る。水はそのたびに、明るい音をたてて路面に飛び散った。短い拍手喝采のようなひびきだった。
by konohana-bunko | 2011-09-11 17:55 | 空中底辺 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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