『汀暮抄』 大辻隆弘

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大辻隆弘第七歌集『汀暮抄』より、以下引用。



人あらぬ屋上階にのぼりきて銀杏の錐の全貌を見る

窓の辺に逆さに立てむとするときに清く鳴りたる牛乳の壜

つくづくと歌の読めない女かなびらびらと赤き付箋を貼りて

漂転暮帰愁ふといへる詩句ひとつわが同年の杜甫の嘆きに

ハンガーを左にずらし干すシャツのひらめきのなかに妻の朝あり

名古屋から那覇ですといふ声がして甘やかにまどろみが誘ふ

みづあさぎいろの曇りが夏暁の南の窓を占めゐたるのみ

ひとつかみほどの太さの夕かげが角度を帯びて部屋をつらぬく

舟板に鵞と豚を載せあやふくも棹をあやつる画中の一人

文政の四年出島に渡来せし駱駝の雌雄が見あげたる空

春の夜にこころやさしく思ふかな種子郵便の割引なども

東京に往反をせし初夏の二日がほどに麦は色づく

夕空の高きに吹かれゐる欅あかるさはたましひのはつなつ

ファックスが吐くあたたかき紙の上に玉城徹のけさの訃を知る

ニーチェにはあらずと告げて出典を糺したまひきわれの批評に

ちりぢりになりたる「うた」の門弟のそのひとりなる女の泣くこゑ

十代の玉城徹の歌を読む日脚ののぶる部屋に坐りて

袋綴ぢの「多摩」のページをおそるおそる刃先に裂きて読み進めたり

小春日のひかりを裏返すやうに白木の椅子にニスを塗るひと



大辻さんのお名前の辻の字、正しくは点がひとつの「辶」です。

写真は興福寺にて。
by konohana-bunko | 2012-08-14 22:15 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり