『本は読めないものだから心配するな』 管啓次郎

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管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(2009年/左右社)を読んだ。エッセイのような日記のような、筋のない小説のような、散文詩のような……こういう思索の文章をたどるのは、楽しい。砂浜の上にいきいきと弾むけものや鳥の足跡を追いかけるみたいに楽しい。

以下引用。

《きみもすでにそこに属しているに違いない書店の共和派は、たったひとりの日々の反乱、孤独な永久革命を、無言のうちに誓っているのだ。ただ本屋を訪ねつづけることが、彼/彼女の唯一の方法論であり、偶然の出会いが、彼/女のための唯一の報償であり、それによってもたらされるわくわくする書く生還と知識の小さな連鎖的爆発が、彼/女の原動力だ。》
(p22 「書店の「共和国」は、ドルを参照枠とするお金の「共和国」に、対抗する」) 

《詩はいつもそこにある。詩を読む習慣のある人は少ない。もったいないと思う。読書のための時間が限られていればいるほど、迷う必要はない、きみは詩を読めばいい。詩集は余白が大きくて目が疲れないし、詩そのものは大体どれも短い。それで短時間に、くりかえし読める。読めば心に残る。驚きがあり、発見がある。覚えてしまった言葉は、本そのものが手許にないときでさえ、楽しませてくれる。考えさせてくれる。その場ではあまり意味がわからなくても、よみがえってくるとき「ああ、そういうことなんだ」と納得したり感心したりすることがよくある。そしてこのプロセスが、われわれの心の風景を変えてゆく。心の地形も気象も変えてゆく。》
(p44-45 「迷う必要はない、きみは詩を読めばいい」より)

《橋はそれを渡る人の数だけの別の橋。本は読む人の数だけの別の本、映画は見る人の数だけの別の映画、そして人はその人に出会う人の数だけの別の人だ。このことにぼくはいつもとまどってきた。われわれはおなじ本の話をしているのか、おなじ映画の話をしているのか、おなじ人について話をしているのか?》
(p156 「本は読む人の数だけの別の本」より)

《去年(二〇〇七年)の夏、和歌山県新宮で、中上健次のお墓参りにむかう途中の車の中で、画家の岡崎乾二郎さんが話していたことが印象に残った。彼の言葉をそのまま再現することはできないので、概要だけ。映画というけど映画とは覚えているかぎりのことが映画なんだ。つまりビデオで何度もくりかえし立ち止まりながら、細かく精密に見てゆくようなものではない。上映時間の流れの中で見て、見終わって記憶に残っているものを言葉にして語る。その「語り」が映画。淀川長治さん。あの人の「話」。あれが映画です。》
(p159 「忘れれば忘れるほど、見直すたび読み直すたびに新鮮なんだから、それでいい」より)

《ぼくは五十歳になった。果たせなかったことの重みを足首に巻きつけてでもいるかのように線路沿いの道を毎日とぼとぼと歩いていた。》
(p220 「できれば意識せずにすませたかった何かを体現する形象」より)

次はジェイン・ブロックスというエッセイストが書いた”Bread”というエッセイの話。彼女はシリア系の祖父母をもつ、マサチューセッツの農家の娘だとのこと。

《やがて一九六〇年代、パン屋の燃料はガスや電気になり、ドウをこねるのも機械になり、移民の子供たちは言語を英語に切り替え、それぞれのエスニック・グループのパンはアイリッシュ・ソーダとかジューイッシュ・ライといった形容詞をつけて呼ばれるようになる。ところがその中に、シリア系の彼女たちがけっして別の名前で呼ぶことあない、つまり翻訳されない、二種類のパンがあります。その名前はシムシムとザータール。》(中略)

《シムシムとはセサミ(胡麻)を意味し、これはすぐに大好きになる甘いパンのこと。胡麻がふりかけてあり、薔薇水で味と香りをつけた砂糖のシロップに浸してある。おだやかで心を落ち着かせてくれるその香りは、口をかぐわしく甘くさせ、両手と唇をべたべたと汚す。シロップがお皿に溜まる。
ザータールのほうにはハゼノキの実が載っている。その乾燥した赤い実を細かく砕き、オリーヴ油、タイム、オレガノとまぜてある。パン屋さんがそれを包んだ白い紙には油染みができて、パンの上のスパイス類と乾燥したハーブは焦げて黒くなっている。良い土のように黒く、土の味がする。ハゼノキ、タイム、そしてオレガノ――他の料理だったらすこしずつしか使わないものが、ザータールにはふんだんに使われる。》(中略)

《シムシムとザータールはいつもおかあさんがパン屋から戻るとすぐに食べるのだった。母はそれをどちらも薄く切ってくれて、私たちは台所に立ったまま、カウンターにもたれかかって、まずシムシムを、ついでザータールを食べ、ぴりっと舌を刺すザータールを、ついで舌をなだめてくれるシムシムを食べ、ひとつの味を味わいながら心はもう次の味を考えていて、切ったパンはどんどんなくなっていった。私は、最後の一切れをどちらで終えようかと、いつもいつも迷うのだった。一方はほとんど甘すぎるくらい、もう一方はあまりに刺激が強すぎて、そしてどちらも翻訳することはできない。》(p246-247「細部にこそ、異質な人たちの心の、文章による以外接近しようのない心の領域が、はっきりと表れる」より)

ひとつひとつの章のタイトルが、もう、それだけで胸一杯になるくらいすてきだった。
by konohana-bunko | 2012-12-27 20:24 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり