『私の中の地獄』  武田泰淳

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武田泰淳『私の中の地獄』(筑摩書房)を読んだ。重い本だった。人間がみしっと詰まっていた。重いのは嫌いではない。ただいざメモを取る段になると、どこをどう、と選ぶ前に、錘がつけられたみたいに気持ちがずーんと本の中に沈んでしまって、(はい、ここと、ここね、はいはい)というふうに抄出することができなかった。それで読み終えてから長いこと机の横に積みっぱなしにしていた。
巻頭の表題作「私の中の地獄」に書かれているのは、父母の老いと死。妹の死。伯父の遺体の解剖に立ち会ったこと。犬を食べたこと、犬を愛玩すること。

以下引用。

《きれいなもんが好き。きたないものがきらい。これが、人間の本性だ。だが、きれいな女がほんとうに、きれいなのか。きたない女がほんとうに、きたないのか。オシャカ様の目からすれば、彼女たちは平等に、やがて変化する仮の姿にすぎない天において、全くかわりがなかった。
ただ、心がかりなのは、おそらくシャカ族の王子、シッダルタの結婚した相手の女性は、古代インド人の感覚によって「美女」と認定されたオンナであったのは、まちがいないことである。いや、それより以前に、おシャカ様の父上は、もっとも美しき母上をえらび、そして美しき我が子を生みなさった。これまた、まちがいないのである。
おシャカ様が、私の伯父など足もとにも及ばぬ美丈夫だったことを、私は信じて疑わない。仏典には、くりかえし、ホトケの姿の荘厳が書きつらねてある。みにくいホトケ、きたならしいホトケを描いた仏書には、お目にかかったことがない。
だが……。だが、原始仏教、根本仏教、教団の保持をねがわない、生まれたばかりの新鮮さを失わない仏教にとっては、地上世俗の美醜の判断を、ホトケにまでくっつけることに反対だったのではあるまいか。》(p17-18 「私の中の地獄」より)

《歯がなくなっても、肉ずきの私は、肉食を非難しようなどとは考えていない。だが、ニクを食べるとは、一体、いかなるヒューマニズムと結びつくのかな、と考えることがある。
かうて、目の前で撲殺された他家の犬を、数時間後に食べた私は、やがてドイツ種の子犬を飼い、むやみに可愛がって、ガン手術のため入院までさせた。動物に対する愛情とは、そもそも何なのだろうか。掬いがたい矛盾が、ここにある。
動物愛護週間が、くりかえされるのは、おそらく正しいであろう。弱い動物を無意味にいじめることが良いはずはないのだから。
肉屋さんにも、魚屋さんにも何の罪もありはしない。彼等がいてくれるおかげで、私たちは平気で、おいしい生物の死体をたべることができるのだから。もしも、真の罪人があるとすれば、他人に殺させておいて、自分はそれと無関係なような顔つきで、愛犬や愛猫だけ可愛がる「良心ある人」であろう。そして、まちがいなく、私もその一員なのだ。》(p24-25 「私の中の地獄」より)

《仏像のひじょうにうつくしいものをながめて、ありがたいとわたくしもおもいます。じっさいにうつくしいし、こういうものを保存しなければならない。金閣寺を訳ようなばかなまねはしたくない。ことに寺院に育っていれば、仏像をけがしたり、あるいは寺院をけがしたりするのをひじょうにきらいます。
戦国時代の歌舞伎をみると強盗が仏像をおので打ち割ってたき木にくべる場面がよくあります。仏像というのはひじょうに完成された美ですが、それをたき木にしてしまう。わたくしはそれをみてどきっとする。しかし、そのどきっとするのは、けっして強盗が仏像をこわしたことだけではない。もしかしたら強盗がこわさなくてもその仏像はこわれるんではないか、という変化の哲理が、ぼくのなかに同時に浮かびあがってくるからどきっとする。もしその強盗をとがめるだけだったら、ただ単にどきっとするだけだけれども、そういうことを自分もこころのどこかで是認しているのではないだろうか、強盗みたいに仏像を割るようなことはしないけれども、なにか天然自然の力でそれが消えうせることもまたありうるのではないか、という気持ちがこころのなかにある。それでどきんとする。》(p71 「文学と仏教」より)

一旦引用終わり。
普段人が見ないようにしている、ものごとの裏側、心の動きの裏側、影の側を、他人のものを見るような醒めた目で見て、書いたもの。自分も普段考えないでいる(考えないようにしている)ことだから、突きつけられると確かに気持ちは苦しくなる。だからといってこうした影の側について考えないでいていいとも思えない。今わたしに、この重苦しさを感じる必要があったから、この本を読んだのかもしれない。最後まで、読み通せたのかも知れない。
(読むくらいが何であろう、気楽なものではないか、これを書くことに比べれば。)



別の所から、また引用。

《「展望」(昭和四十六年六月号)の座談会「『戦後派』前史1」で椎名氏は次のように語っている。
それは、加藤武雄などの小説入門書を読んださいの若き日の感想である。
「今になれば無理もないと思うけれど、そのときは何か違うって感じがいつもするんだな。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くとうようなことを書いちゃいけないと、どの本にも書いてあるんだね。それをしなかったら人間死んじゃうじゃないかと思う。どうしてそんな重大なことがいけないのかわからない。いちばんいやな人間の苦悩を書けと言ったって、苦悩は人間にとっていちばん要らないことでしょう。わからんことだらけでね」
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くというようなことは、毎日くりかえし昨日から明日へとつづいて行く、まちがいのない現実である。そのあたりまえな現実に耐えている勤人みとって、小説入門書に示された文学的苦悩より先に、それほど苦悩ぶらない、何も特別な点のない苦悩があり、それを抜きにしては生きて行けないはずである。それなのに、「書いちゃいけない」と教えられ、しかも自分にとって最も必要でない、一ばんイヤな苦悩を書けとすすめられたときの、生活者のとまどいは簡単なものではあるまい。
とりわけ、それら平凡な俗事に新鮮な表現をあたえる方法を知らなかった文学志願者にとって、このとまどいは行手をさえぎる壁であり、拒絶であり、それだけでうんざりする難局だったにちがいない。》(p225-226「誤解の効用」より)

引用終わり。
泰淳さんがここで書いている小説の話を、わたしはつい、短歌に置き換えて読んでしまう。
平凡な俗事の中にある些細な気付きを歌に詠めたら、と短歌を始める人がたくさんいることを思う。どの新聞の、どの雑誌の投歌欄にも、日常を詠んだ歌が途絶えることなく載っている。それそのものに善悪はない。ただ、それがブンガクとなり得るかどうかはまた、別の問題、個々の歌の問題である。
かといって、「一ばんイヤな苦悩」の方も、簡単に歌に詠めるようなものではないだろう。ときに、人を歌に向かわせる圧にはなりそうだけれども。
ブンガク者だって生身の人間である以上、ブンガクになろうがなろうまいが、日常を生きなければならない。まっとうな社会生活者としてあり続けることは、それだけで一大事業である。それを、こなしつつ、一ばんイヤな苦悩とやらを脳底に常に抱え、なおかつあれやこれやの新鮮な表現を探求しようとする……。この文章を読んで、そんなことを考えた。やれやれ、ブンガク的な歌を詠もうだなんて、ほんと、もの好きな!
by konohana-bunko | 2013-04-07 08:53 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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