『漢字百話』 白川静
2013年 08月 04日
白川さんの本は、岩波新書の『漢字』に続いて2冊目。内容はもちろん、漢字のなりたちについて、いろいろ。ほお、そうなんや!知らんかった!がいっぱいで面白かった。
漢字のなりたちについて書かれているのと同時に、漢字が生まれた頃の、漢字のふるさとの人のくらしが描かれている。身体に入れ墨を施し、あらゆることについて常に神に伺いをたて、犬や人を生け贄として埋め、巫女に歌わせ舞わせまたそれを撲り犠牲にする。
例えば「口」は、ものを食べたりしゃべったりする口ではなく、神のお告げを受ける器のかたち……といった風に、文字から昔の人の生き方や思想をあきらかにしてゆく様子は、土器や遺跡から昔の人の生活を探ろうとするのに似ていると思った。
ブログに引用しようとすると、肝心の文字をどう表示させたらいいのかわからない。できる範囲で、ちょっとだけ引用。
〈畿は田土に対する清めを行う意であろう。幾は戈(か)に呪飾をつけて邪気を祓うことであるが、それで田土を清める。(中略)
近畿とは、このようにして祓い清められ、邪霊異神の住みつく恐れのないところである。〉
迂闊にも、この本を読むまで「近畿」の意味を知らなかった!近畿ってこんないい意味のことばだったんだ……。
〈愛は心のこりに後をふりむいて歎く形である。〉
〈烏は象形字であるが、その字形はふしぎに生気を失った形にかかれている。下体は力なく垂れ、何かに繋けられているようにみえる。烏を孝鳥などというのは後世のことで、この色黒く貪慾にして忌憚なき鳥は、古くから悪鳥とされていたことは疑いない。『詩経』にも「誰か烏の雌雄を知らんや」(小雅『正月』)と歌われ、名うてのやくざものにもたとえられる。作物を荒らす烏は、いまも農作地でよく行われるように、季節どきには殺して木の枝や縄にかけわたして、烏よけに使われたのであろう。金文にみえる烏は、どうみてもその悪たれ烏のさらされているすがたである。〉
〈読書を愛するものにとって、いくらかの知的開拓や緊張を伴わぬ読書は、読書というに価しない。〉
御意!
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写真、蓮の花を撮りに行った時に出会ったカルガモ。畦道をこちらに向かって歩いて来て、右の田圃にぽちゃんとはまり、お尻をふりふり泳いでいった。