『夜と霧』  V.E.フランクル

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近所のリサイクル書店で購入。750円。リサイクル書店にしては安くないが、これは一度は読まなければならない本なのではないかと思って、買った。著者は1905年ウィーン生まれの精神科医(フロイトにも師事した由)。『夜と霧』は著者のドイツ強制収容所での体験に基づいて書かれたもの。前半に2段組でドイツ強制収容所の解説があり、真ん中に本文、巻末に写真・図版がついている。

以下引用。

たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間は―瞬間でもあれ―愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。収容所という、考え得る限り最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態―このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ観て浄福である、と言われていることの意味を私は生まれて始めて理解し得たのであった。(p123,124)

愛する人間がまだ生きているかどうかということを私は知らなかったし、また知ることができなかった。(全収容所生活において、手紙を書くことも受け取ることもできなかった。そして事実妻はこの時にはすでに殺されていた。)しかしこの瞬間にはどうでもよいことであった。愛する人間が生きているかどうか―ということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛、私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわずに今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。(p125)

人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。(p183)

(一部略)――われわれの戦いの見込みのないことは戦いの意味や尊厳を少しも傷つけるものではないことを意識するように懇願した。わたしは彼等(引用者註:彼等=仲間達)に云った。この困難な時と、また近づきつつある最後の時にわれわれ各自を誰かが求めるまなざしで見下しているのだ……一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者……そして一つの神が。そしてその者はわれわれが彼を失望せしめないことを期待し、またわれわれが哀れに苦しまないで誇らしげに苦しみ死ぬことを知っているのを期待しているのだ。(p191)

引用終わり。
最後の引用文あたりを読んでいて、昔気に入ってノートの表紙に書いていた文句を思い出した。大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』(上巻/新潮文庫)に出てくる一節。幸い手許にあるので、ついでに(と言っては何だが)書き写してみる。

How touching it must be to a soul in dread before the Lord to feel at that instant that, for him too, there is one to pray, that there is a fellow creature left on earth to love him too!

恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にまだ自分を愛してくれている人間が残されていると感ずることが、どんなに感動的であろうか。  (新潮社版『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳より)

この文庫本、高校3年初読の時のもの。表紙カバーの汚れっぷりがなつかしい。これを読んだ時(自分も、こんなことを頭のほんの隅っこでいいから、忘れずに生きていけたら)と、思ったのだった。
by konohana-bunko | 2005-11-26 17:38 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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