『それでも人生にイエスと言う』 V.E.フランクル

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『夜と霧』のつづきとして。
以下引用。

ある古い神話(*)は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなくらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。
しかしこの神話はさらに伝えています。こうした「義(ただ)しい」人たちのうちの誰かがそれとして認められ、まわりの人々、いっしょにいる人間たちにいわば「見破られる」と、そのとたんにその人は消えてしまうのです。「引退」させられるのです。その瞬間に死ななければならないのです。これはどういうことでしょうか。こう表現しても間違いではないでしょう。人々は、そういう人たちが模範となって自分を教育しかねないと気づくと、「いやな気持ちになる」のです。人間は、教師口調で叱られたくないものなのです。

 *旧約聖書と並ぶユダヤ教の聖典である『タルムード』に「日毎に神の臨在する三十六人の敬虔者」のことが語られている(Sukkah 45b)。またその後の伝説によれば、これらの敬虔者は、謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営みながら、その営みの背後に隠されている義によって、この世界の存立が支えられているという。  (p15~16)

たしかに、生物学的に見た人間の生命、肉体的な生命は、はかないものです。肉体はなにひとつのこらずなくなってしまいます。そうだというのに、どれだけたくさんのものがあとにのこされることでしょう。肉体がなくなってもなくならず、私たちが死んでもなくならないもの、私たちの死後もこの世にのこるのは、人生のなかで実現されたことです。それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです。私たちの人生は燃えつき、のこされるのは、実現されたものがもっている効力だけです。その点では、ちょうどラジウムに似ています。ご存じのように、放射性物質には寿命がありますが、ラジウムは、その生涯のうちにどんどん放射エネルギーに転換されて、二度と物質には戻りません。私たちが世界の内に「放射している」もの、私たちの存在から放射されるさまざまな「波動」、それは、私たちが死んで私たちの存在そのものがとっくになくなっていてものこるものなのです。 (p51)
by konohana-bunko | 2005-12-14 20:26 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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