興福寺拾遺

バッチコーイ。
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閑話休題。

猿沢池のほとりでおにぎりを食べていたら、目の前を車椅子が通った。車椅子には、小柄でふっくらした女の人が乗っていた。それを、背の高い男の人が押している。60代から、70代くらいの年配の夫婦だ。
男の人は、わたしから10歩ほど離れたところで歩みを止めた。そして、車が駐車場でタイヤを切り返すように、2度ほど前進後退を繰り返して、車椅子を半回転させた。車椅子が池の方を向く。奥さんの正面に、五重塔が見える角度だ。
昨夜は冷え込んだので、池には氷が張っている。だが今は、いいお天気で、風もない。車椅子の奥さんの背中に冬の日が当たっている。
二人は特に何を話すわけでもなく、しばらく景色を見ていた。それから、ご主人は肩に掛けていたものをおもむろに手に取った。カメラだ。大きなレンズのついた一眼レフ。五重塔を狙って、両手で構え、シャッターを切った。
ぱしゃあっ。
一瞬、泣けてくるような、いい音。もう一度。
ぱしゃあっ。
それから、奥さんに向って、「ん」と声を掛けた。奥さんは心得た様子で、姿勢を正し、ご主人の方に顔を向けた。ご主人は少し斜め後ろに下がって、カメラを構えた。どんな写真が撮れるのか、見えるような気がした。冬枯れの猿沢池をバックに、車椅子に乗って、目を細めている奥さんの写真。
ぱしゃあっ。

(ああ、声を掛けるのなら今だなあ)と思った。ご主人、もしよろしければ、1枚撮りましょうか。奥さんとご一緒に、ねえ、と。でも、ためらった。何より、あのカメラだ。ピントの合わせ方もわからない。重いから、折角撮っても手ブレで失敗かもしれない。おまけに、わたしの指はおにぎりのご飯粒で汚れている。

結局、声は掛けなかった。
3枚だけ写真を撮って、ご主人はカメラをしまった。それからしばらくあたりを眺めてから、車椅子を押して帰って行った。
by konohana-bunko | 2006-01-13 21:26 | 空中底辺 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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