橘曙覧メモ(5)

曙覧さんの歌集について、どんな切り口で文章を書いたものか、数日考える。門外漢なので「近世短歌史における橘曙覧の位置」などと書こうとしてもしょうがないし(いや書けないし)橘曙覧を援用して「短歌とはかくあるべき」だと声高に論を述べるほどの理屈もないし。結局、わたしに書けることは、自分が曙覧さんの歌を読んでどう感じたか、何をよいと思ったのか、それしかない、と思い定める。(何や、いつも現代短歌を読む時と、一緒やん。)まあ、それだけは、わたしにしか書けないことだから。

何かヒントになる断片でもないか、と、2003年に作った曙覧さんの資料を引っ張り出す。ファイルが二つある。ひとつはJ-TEXTS 日本文学電子図書館にある橘曙覧歌集のテキストを印刷したもの。当時わたしは曙覧さんの本を持っていなかったので、ここの電子データに随分助けてもらった。

もう一つのファイルに、当時書いた要点のメモでもあれば…と期待したのだが、こちらは業務連絡のメールが綴じてあるだけだった。過去の自分を当てにしている時点でアカンやないか。のび太君やあるまいし。ちゃんと今、自分で、やりなはれ。へい。自分と自分で問答しながらメールを眺めていると、
「平明な文体の限界と可能性」
こんなキーワードが書かれているのを発見。ははあ。どうも、テーマだけはすごいことを考えていたらしい。

閑話休題。
by konohana-bunko | 2006-05-09 21:33 | 空中底辺 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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