お粥さんのような――『風塵抄』司馬遼太郎

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今日の花はノウゼンカズラ。古名は「まかやき」と、広辞苑と言海に出ていた。(語源は接頭語の「ま」と「かがやき」なのか?)などと、暑さの中、あてどないことを考えるのも、たのしい。

『風塵抄』  司馬遼太郎

小学6年の折に『燃えよ剣』を読んで以来、司馬遼太郎の本は少しずつ、少しずつ、読んできた。いまだに、飽きない。あの、ぽきぽきと短く折れる枝のような改行や、漢漢(おとこおとこ)したことばの斡旋、糞真面目なようで突飛な比喩が好きだ。元気な時はもちろん、体調の悪い時でも、司馬遼太郎なら読める。これはもう、自分にとって、精神のお粥さんのようなもの。さらさらと入って、なおかつ、滋養がある。

以下引用。

人は、死ぬ。そのことによって土が肥え、草木がよろこび、つややかになった葉や、みのって赤く熟した実を鳥やケモノがたべる。
同時に、生きた人も養われる。
「だからこそ天地はかがやいているのです」
というのが、大乗仏教である。
万物が関連しあい、盛衰・生死というごうごうたる廻転のなかで生きている。これほどの華やぎがあろうか、と大乗経典はいう。
大乗経典にあっては、死こそよろこびであり、再生は即座に保証される。それどころか、死のなかにすでに生が芽ばえ、また一個の生命のなかでも、細胞が刻々死に、刻々よみがえっている。
だからといって、あなたという人がもう一度この世にもどってくることはない、と暗黙のうちにいう。

「それでは、あんまりだ」
という苦情に対しては、
「そう思う自分自身から離れなさい」
と、大乗経典はいう。
「離れれば、すぐさま天地があなたのなかに入ってきます。あなた自身、天地になることが、永遠ということなのです」
それが、悟りである。
悟れば、天地がかがやいてみえ、生命のなかの細胞の一つずつまでも光を帯びてくる。
その光の巨大な総和こそ、仏だとする。東大寺大仏殿のビルシャナ仏もそうだし、大日如来もそうであり、また阿弥陀如来もそうである。名がちがっているだけで、光の総和であることにかわりがない。
もし自力で悟る力をもっていないなら、他力(仏)にすがりなさい、ともいう。生命が生死することをありがたく思い、光にむかって感謝せよ。
それもなまなかな感謝ではなく、
「おどりあがってよろこべ」
歓喜踴躍(かんぎゆやく)せよ、という。このむずかしい仏教語は、むかしは民間のふつうのことばだったらしく、おどろくべきことに、十七世紀初頭、イエズス会が編んだ日本語の辞書『日葡辞書』(にっぽじしょ)にもQuangui yuyacuと、ポルトガル語表記で出ている。(p238-240「花祭」より)

引用終わり。この本には、「うちの近所に高校がいくつかあり学生の姿をよく見かける。歩きぶりが悪くガチョウの群れのようで」という文も収録されている。ガチョウの一羽だったわたしは、みどり夫人と連れだって信号を待っていた司馬氏の後姿をなつかしく思い出すのである。
by konohana-bunko | 2006-08-11 21:55 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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