橘曙覧メモ(8)

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橘曙覧、大隈言道、小澤蘆庵らの歌、〈ただごと歌〉と奥村晃作が呼ぶところの歌を、同時代の人たちはどう読んでいたのだろう。
好意的に受け入れられていたのだろうか。

6月は『橘曙覧全歌集』を読みながら、そんなことをひとりで考えていた。考えは頭の中にある限り、青空に浮かぶ雲に似てぽわぽわとつかみどころがなくてきれいだ。そしていざ、紙の上、画面の上に文字にしてしまうと干からびた花のようにつまらない。

7月のはじめ、日月の夏の会があり、Aさんと会った。Aさんは高校の先生で、国文学が専門である。2003年の夏の会で自分が発表した橘曙覧のレポートのこともご存知なので、いい機会だと思って尋ねてみた。

「いわゆるただごと歌って、当時の人はどんな風に読んでいたんでしょうね?」
そう尋ねると、Aさんは「わたしはそんなに近世和歌にはくわしくないですよ」と断わってから、
「それは同時代の人の批評というのを探して読まなければ判らないですね」と答えた。
「古典を本当に理解しようと思ったらその時代の人のことばの感覚で捉えないとわからないんです」
「現代短歌の歌集を読むようにして読んだのでは、違った読みになってしまいます」

現代短歌の歌集を読むように読んでは、解釈が違ってしまう。
確かにそうかもしれない。
だが、わたしは曙覧の歌を、現代短歌を読むようにして読んでいる。文法が難解でなく、近代的な感覚で詠まれているので、読めてしまう。読めたような気になる。
「その[読める]というのは、[意味がわかる]という程度の[読める]でしょう。江戸末期の人の感覚とは違った捉え方になっている可能性が高いです」

Aさんの話は続く。
「〈桂園派←→ただごと歌〉と対比させて考える人もあるでしょうが、このあたりのことは、大きな文学史の流れの中で捉える方がいいんじゃないかとわたしは思うんですね」
Aさんはそう言って、テーブルの上に手で、くねくねと左右に蛇行する線を描いてみせた。「技巧と、真情というものが仮に両極にあるとして、あっちへ行ったりこっちへ寄ったりする動きがあるというふうに……」
「振り子が一方に振りきったら、反対側に行くように、ですか?」
「そうそう。」
〈ただごと歌〉そこだけを取り出してあげつらったのでは、見落とすものがある、ということらしい。
Commented by やまんね at 2006-08-23 23:01 x
「ただごと歌」と定義づけるのもどうかと思ったりします。読みに正否を問うのもどうなのかしら・・って単純に考えます。日常の暮らしの中での人間的感慨は、時代背景が問題になるものは別として、今も昔も変わらないところがあるのですし、曙覧の歌が新しいと感じるのはその時代にそういう日常の感慨を歌にしたことにあるのではないかしら。
これも、あとりさんのレジメを読んだだけの感想ですが。
Commented by つぼ at 2006-08-24 00:19 x
正解なんて有りえないし、正解なんて、つまらない。
何かと何かが出会えば、何かが生まれる。そんな風にしか考えられない。自分のことでさえ、現在はもちろん過去も理解できないんだし。
その時代に想像力を働かせるのは無意味なことじゃないでしょうね。それもありますね。ただ、何かを得れば何かを失うわけで。。知識が生命力を奪うということもあり。。。学問という誤解を選ぶか、現代感覚という誤解を選ぶか、どちらも誤解には違いないと思いますが。。
Commented by konohana-bunko at 2006-08-25 16:57
やまんねさま 独楽吟(「たのしみは…」で始まる歌)なんて、本当、どんな時代にも普遍的なしあわせが詠まれているから、昔の歌のような気がしないんですよね。

つぼさま 同じ誤解するなら、借りものじゃなくて心底自分の思ったとおりの誤解をやりましょう。この件、またつづけて書きます。
by konohana-bunko | 2006-08-22 14:13 | 空中底辺 | Comments(3)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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