『青空の人たち』  平林英子

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『檸檬』から芋づる式読書。平林英子は1902年生まれの小説家、また中谷孝雄夫人。梶井、中谷らと同人誌『青空』を出すことになる。『青空の人たち』には、梶井基次郎・三好達治・外村繁・淀野隆三・武田麟太郎ら5人の追想が収められている。

以下引用。

ある日中谷の父から手紙がきて、近日京都へ出かける用事が出来たから、序でに下宿を訪ねたいと書いてあった。私たちの同棲のことなど全く知らない父は、前年落第した息子が、真面目に勉強をしているかどうかが心配で、それとなく様子を見にくるつもりらしかった。私たちはあわてた。梶井さんとも相談して、私の持物を階下に預けたり、衣類は押入れの奥に片づけて、いかにも真面目に勉強をしていることを示す為に、梶井さんの下宿から、目ぼしい本を全部運んできて飾ったりした。西田幾多郎とか、カントの哲学書などが多かったので、部屋の中は急にいかめしくなった。
すっかり準備ができると、私はその晩梶井さんの下宿に泊めて貰うことになり、夕方一緒に出かけようとしたら、急に雨が降りだしてきた。だが傘は一本しかなかったので、仕方なく相合傘で出かけねばならなかった。二人が一本の傘に入って外へ出るのを見た、少し剽軽なところのある階下のおかみさんが、うしろから大声で冷やかすのには閉口した。  (「梶井基次郎」p19-20)

引用終わり。英子さんは梶井の親友中谷と同棲、のち結婚するものの、フェミニズムなど影も形もない時代(大正~昭和初期)のこと、貧乏、入籍前の出産、戦争、夫の出征、いまひとつ乗り切れない社会主義活動などと苦労を重ねることになる。ただ、苦労を苦労とは思わない部分があったようで、本人曰く「文学好きのおろかな女房たちは、文士とは貧しきものなりと思いこんでいて……それに生甲斐と誇りをさえ感じていたのだから、全く始末がわるかった。」(「三好達治」p54)
英子さんは暮らしを立てるため、『青空』同人だった外村繁(つまり夫と共通の友人)が営む店に雇ってもらったこともあった。以下はそのくだり。

たまに日本橋の店へ、仕事の帰りに外村さんと打合せがあって顔を出すと、二階の広間に、殿村さんの学友たちがきていることがあった。皆大会社や銀行に勤めていて、上等の背広を着ていた。大学で一緒に経済を学んだ人達だとのことだった。
外村さんはそんな友人たちと、店がひけてから、人形町あたりの小料理屋へ、時々飲みにいくようであった。友人たちは私の前でも、屈託ない顔で「外村、うんと儲けて御馳走してくれよな」などと云っていたが、年老いた番頭は、こういう客には、現金にしぶ顔を見せていた。
外村さんに云わせると、商売をしていく上には、文学の仲間より、このような友人の方が大事だと云うのだった。私もその時は、多分その通りだろうと思ったが、これと同じ言葉を、ずっと後になってから、淀野さんからも聞いたことがあった。それは淀野さんが父親の名前、三吉を襲名したあとのことだったと思う。しかし、結果は全く反対で、小学校しか行かず、そんな教育のある友人など、ひとりも持っていなかった彼等の父親たちが、立派にやってきた商売を、大学出の息子たちは忽ちつぶしてしまったのである。  (「外村繁」p106-107)

引用終わり。こうして英子さんは文学青年たちのほろ苦い青春とそのなれの果てを見届けることとなる。文学青年どもは大病したり早死にしたり嫁を泣かしたり親の商売を潰したり、大なり小なりろくでなしであり、そのろくでなしぶりも面白いといえば面白いのだが、わたしはむしろ英子さんの文章の乾いた明るさにひかれた。新聞記者の経験があり、また小説家として、自立した精神、聡明な眼を持っていたというのもあるのだろうが、やはり最後は人柄だろうか。
英子さんは長命して、2001年に99歳で亡くなっている。
by konohana-bunko | 2006-08-29 20:35 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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