『野兎の眼』 串田孫一
2006年 12月 18日
――庭の木を見ていると、もう完全に枯れてしまったと思ったものが、再び芽をふき出して元気になることもある。人間も大病をして、医者ももう手のほどこしようがないところまできて、急に元気を取り戻し、その後普通の人間とどこも変わりなく働けるようになった人の例もよくきく。
私はそういう意味での再生を考えないが、自分の仕事で、新しいものが生まれてくることをいつも考えている。そうでなければこうした仕事は続けられない。
惰性で文章を書いてしまうこともあるが、仕事になれて、楽にどんどん仕事を片付けていっては、私の場合いけないのである。そのことをいつも考えて自分が単に満足するだけでなく、驚くほどのいいものを書こうとする。少なくとも心がけとしてはそう思っている。
落葉松から出る芽は落葉松の芽であるし、あじさいの芽は今年も去年も変わらない。しかし新しく緑の生命が湧きこぼれるように躍動している。これが羨ましい。私の中には将来、葉となって繁り、花となって咲き匂うものがあるだろうか。あるだろうかではいけない。人間の場合は自ら懐胎しなければならない。生まれ出るのを待っているべき性質のものではない。
(p127-128「発芽・再生」より)