『俳句という遊び』  小林恭ニ

c0073633_2232648.jpg
写真、ご近所の塀。塀の手前側は、家があったのを取り壊して、現在は駐車場になっている。このタイルの部分には、流し台があったのだろうか?それとも風呂?隣家と裏表で接しているコンクリート塀に直にタイルが張られているところが、何か謎。



『俳句という遊び』は、『短歌パラダイス』を書いた小林恭二の中身の濃い句会報告。単なる報告にとどまらず、俳人のキャラクターおよび代表作の紹介、句会というのはどういうことをするのか、句会の場での丁々発止のやり取りの空気までいきいきと伝えている。とても面白い。この面白さは、小林さん自身が心底、俳句や短歌を愛しているところから生まれているのだろう。

以下引用。

今は亡き高柳重信がこれ(引用者註:大正8年から12年生まれの年代に優れた俳人が多いこと)について、この年代の人々はちょうど青春期が第二次世界大戦で明日をも知れぬ命だったせいもあって、悠長に小説を書いたりする暇がなく、勢い短時間でも心境を吐露できる俳句に傾斜したという意味のことをどこかで書いていたが、なるほど、そういう理由もあるかもしれない。(p134-135)

引用終わり。
この部分を読んでいて、直接関係のないことを思い出した。
昔、人に、「まともな文章を書く能力がないから短歌なんかやるんだろう」と言われたことである。

そんなふうに、身も蓋もないことを言われて、その時はちょっと悔しかった。悔しかったというのは、要するに図星だと感じた、ということである。
ちなみに「まともな文章」というのは、小説のことを指す。

確かにわたしは、小説には書けなかったことを、短歌でなら形にすることができた。だがこれは決して「安いもので間に合わせた」ということではない、と、今のわたしは思うのだが。どうだろう。

ビフテキを好きな人が、笊蕎麦を馬鹿にしたらアカンって、開高健も言うとったデ?

   つんどくや何処も坂なす古廊下  高橋睦郎
   
               (『俳句という遊び』小林恭ニより)
Commented by うんぽ at 2007-03-09 08:40 x
文章が書けなくても短歌はできる。すばらしいことじゃないですかね。
逆にまともな文章を書けたら短歌はできるのでしょうか。
だいたい「まともな文章」ってなんなのか。つまらなそうな文章ですね。
1000字の文章にはそのための技量がいるし、31文字の文章にはそのための技量がいる。
31文字のほうが誰にでも作りやすいとすれば、それは長所であって、その形式の劣等を意味するものではないと思いますが。
私なんか自慢じゃないが、1000字も31字も駄目で・・・つまり私が駄目か・・
Commented by konohana-bunko at 2007-03-09 16:20
小説にせよ歌にせよ、結局は個々の作品の質が問われる、ただそれだけのこと。中には、歌もエッセイも評論もうまい!というスゴい人もありますしね。(^^)
及ばずながら、せめてここで意味の伝わる文章を書く稽古をしたいと思います。
Commented by sumus_co at 2007-03-09 21:37
付句をありがとうございました。拙作が生かされて展開してゆく、この驚きが連句の魅力だと改めて実感します。歌仙を巻くのが本来的な俳句の作法なのですね。
Commented by konohana-bunko at 2007-03-11 20:39
勝手にお借りして、失礼いたしました。ご海容下さり、ありがとうございます。本格的な歌仙も、機会があれば挑戦してみたいです。
by konohana-bunko | 2007-03-08 22:32 | 読書雑感 | Comments(4)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
プロフィールを見る
画像一覧