『汝窯』  玉城徹

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日本の古本屋にて購入。葛原妙子の『雁之食』と同じ、短歌新聞社の現代歌人叢書シリーズ。但しこれはビニールカバー欠。状態はあまりよくなかったが、玉城徹にしてはお手頃な値段だったのでうれしかった。
以下引用。

夕かぜのさむきひびきにおもふかな伊万里の皿の藍いろの人  玉城徹

もも長に樹皮をかぶりて佇ちをれば芽ぶきし肩に羽ぶく鳥かげ

とほき世の琵琶のおもての山たにに遊べる象はまなこ清(さや)けし

いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅

ゑんどうの素枯れひそけく風とほりもてあつかひぬ酢牡蠣一つを

ふる雨のとどろく夜を歩み来て梯子明るくかかれるを見つ

山ふかく大しらびそはみどり濃き樹とこそたてれ天つ日のひかり

  *

短歌新聞2007年5月号「子規を聴く10 玉城徹」より、一部を抜粋して引く。

・吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは

江戸時代の末に橘曙覧が「独楽吟」というのを作って、一首の頭に「楽しみは」という句を置く歌を沢山並べたことがある。それを読むと、曙覧の趣味だとか、気質だとかが、大体見当がつくのである。
子規の「われは」は、これを参考にしたのかも知れない。ただ曙覧の場合、惜しむらくは、「楽しみは」というので、最初に種明かしが出てしまった感じを否めないのである。子規は、それが、あきらたなかったであろう。
(―中略―)
実は、何ヶ月か前、子規は、

・世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは

という一首を作って、書きとめたのであった。それを、わざわざ見せ消ちにして、この一連の第八首目に活かしてある。
それはどういう意味であろう。それは、この「われは」という形によって、「自画像」を描こうという、明確な「芸術意欲」の下に、この一連八首を作ったということを意味するのではないか。
この意味で、子規の歌は、「近代的」だと言うことが出来よう。それに対して、曙覧の歌は、いかにも、淡白で趣味的に過ぎるのである。言うまでもなく、それには、その善さがあることは否定できない。ただ、子規には、何だか、それでは物足りない感じがしたろうと思う。

引用終わり。
今かかっている用事を5月の末で片付けたら、また橘曙覧を読んでみよう。
Commented by sumus_co at 2007-05-18 17:54
しりとり十谷あとりとあやとりとりし
Commented by konohana-bunko at 2007-05-20 17:12
ありがとうございます。住む臼産む巣 すむうすうむす♪
by konohana-bunko | 2007-05-17 22:12 | 読書雑感 | Comments(2)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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