『軽みの死者』 富士正晴 編集工房ノア

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天地さん均一にて。編集工房ノアの本を読むのははじめて。あ。奥付のところ、「軽みの使者」になってる。

人の死にまつわるあれこれ、短い話が14篇収められている。そのうちのひとつ、「游魂」は短い小説。話は、中国の歴史(文学)学者が、自室で自分が死んでいることに気付いて愕然とするところから始まる。

死ぬ前、彼は、死後の世界も霊も信じていなかった。「死=物在人亡」だと思っていた。死んでみて(これが物在人亡か)と考えるうち、この「物在人亡」四文字の出典が思い出せないことに気付く。死ぬ瞬間の猛烈な失神状態によって、記憶が欠落してしまったのだ。
彼は四文字の出典を確かめようと自宅の本棚の本に当りはじめる。死者の読書とは以下のようなものであるらしい。

《その充実した読書生活が、どこへ行こうと思えは閉鎖された書庫であろうと個人公共の別もなく浸透し飛行往来できる強みを加えるとなると、自由自在のものとなり、時間も際涯なくたっぷりと我がものであるこの死後の生活は何とも頼もしいものと言わねばならない。しかもこの読書はいわば文字の表をぴったりと往来するだけで行われるのであるから、敗戦以後のあの浅ましい電力事情とか電力ストとか荒たけった世相のとばっちりを受けて三十分交代の停電に気をいら立たせる要もなく、また乏しい嚢中を案じつつ闇値のローソク、ランプの類を備えることもいらない。蛍の光、窓の雪さえ不要、闇の中をもおそれない。むかし北京遊学の折、シナの夜は暗いと感じたそのことさえ今は事実別世界のことがら、朝八時より夜十時まではおろか、一日二十四時間、書物をよみふけって居れば良いのである。私はこうして非常なよろこびをもって書物の中を往来した。》(p22)

本をひとしきり読み終えて、ふと我に返った彼は家族を捜してみるが誰も見当たらない。家族だけでなく、生きているもの一切を見ることも感じることもできなくなっている。彼は

さびしさに耐へたる人のまたもあれな 庵並べむ冬の山里  西行

こんな歌を思い出したりしながら、通いなれた研究所の書庫へ行く。生きているものを感じることができなくなった今、死霊どうしの交流に淡い期待を抱いて。

《私は大書庫の書冊の間を彷徨しつづけた。それは千里の間を往来するのと別に差異ないのである。距離というものも意味を失ったらしい。時間というものもそうらしい。すると、わたしが杜甫に遭遇するということだってあり得ることなのだ。しかしそう考えると妙に不快にもなって来るのだった。初めての人間に逢うことの不愉快さ、いやそれよりはおれは書物だけで結構なのだろう。》(p38-39)

で、結局のところ、彼は死霊に会うことも、死霊の死を遂げることもできない。ようやく発見した物在人亡の「在」の字にひっかかって身動きができなくなったところで話は終わる。
by konohana-bunko | 2007-07-28 22:00 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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