『随筆集 孤宴』 葛原妙子 小沢書店

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歌集を出した後、あるところから「『自著自賛』というタイトルで文章を書いて下さい」というオファーをいただいてびっくりしたことがあった。その時は自分の著書を自賛するなんてとんでもない、恥ずかしい、としか思わなかった。「タイトルを変えてもらえませんか」と相手の方に申し出たのだが叶うわけもなく、結局自分のわがままで断ってしまった。今なら平気で書くかもしれない。著者が800字か1200字でほめたってけなしたって、出来てしまった本をどうこうできるものではない。



歌の自作自註というのは曲者で、読むとがっかりすることもある。例えば葛原妙子の

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

という作品について、作者は、6月の台所で、夕食の準備をしようと使い込んだフライパンを手に取って窓にかざしたのがきっかけでできた、と書いている。おまけにその時、締切を翌日に控えて歌が1首足りなかったということまで丁寧に書き添えられている。(*)
確かにこの歌はわからない部分がいっぱいで、作者に解説を求めたくなる気持ちはよくわかるけれど、正直、この自作註にはがっかりした。こんな所帯じみた解説を読むくらいなら、わけのわからないまま歌だけを鑑賞していた方がよっぽどいい。



『孤宴』には昭和36年から54年にかけての短い文章が45編収められている。以下引用。

《またついでにここで、私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、私は歌うことで訴える相手をもたないということである。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。
こうして私は、歌とは独語の形をとるときにもっとも美しいと信じている一人である。
ところで独語という聴き手や返事を求めない歌が、たまたま他に響いていってその人を感動させることがあり得るのだが、そのような時、私は素直にその幸福をよろこぶのである。
だが告白すると、五・七・五・七・七という古来磨きぬかれた詩型、言い替えればこのような強い束縛の中で、いまの世にながらえているわれわれの内側を独語することはそれほどたやすいことではない、ということである。
したがって歌によって生涯の独語をつづけようとする者は、少し気障な言いかたをすれば召命者のように夜の或る座を占めるのである。そこでは必要上心に叶う言葉を選びとり、言葉の機能の把握に腐心し、腐心するだけではなく、おりおりはからっぽになって放心さえするのだ。そのために当然二人寝の幸福は見送られるだけではなく、ときには更に、あくる朝の、あるいは昼の、無人の数刻を盗むのである。
はばからずに言えば、このような時間泥棒に、こころここに在らざる者に、世のまっとうな幸福などはありえようはずはないのである。

 春の野に霞たなびきうらかなしこの夕光にうぐひす鳴くも  大伴家持
 ひさかたのひかりのどけき春の日にしづごころなく花の散るらん  紀友則

ともにみごとな独白である。うぐいすの鳴く暮れやらぬ光の中で、家持は、ああここにわれひとり、を認識し、友則は、何ごともない春昼にただならず散りいそぐさくらをいぶかしむのである。そしてこれらの歌に一切の返事はないのだ。》

(* 『現代歌人文庫 葛原妙子歌集』国文社所収 「ゆうぐれの水」)



写真、7日(火)、二重の虹。虹が二つ掛かる時は、色が逆になることを知った。
by konohana-bunko | 2007-08-10 21:27 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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