橘曙覧メモ(11)

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司馬遼太郎『越前の諸道 街道をゆく18』(朝日文庫)より抜き書き。



《(頭略)こんにちの松岡町の一性格ができあがるのは、正保二年(一六四五)、福井藩松平家が、五万石を割いてここに分家の藩を創設し、いわゆる「御家中」が引越してきて、町割を造り、松岡藩が成立してからである。(中略)
 『松岡藩夜話』
 というくだりがある。「小身の侍は土間にねる」という小見出しがついている文章を、つぎに写しておく。

   松岡様御時代には、御家中の小身の侍たちは、土間にて、床(ゆか)のあるものはなかった。しかし、その具足びつには、軍用金を貯置し、暮しも質素で、下僕一人を召抱える程度であった。

 江戸封建制の成功は、行政官である諸藩の「御家中」の清廉さと質素さにあったといえるだろう。
 土間には、おそらくわらを敷き、そこに夜の衾をのべて寝たに違いない。江戸期、幕末まで、北陸一帯の小農の家は、その多くが土間だけで床(ゆか)がなかったという証拠が他にもある。小身武士の家は、小農なみにしてあったのである。》(p146-147「松岡町」)



 《越前今立(いまだて)で漉かれてきた和紙は、懐紙や往来物(引用者注:寺子屋の教科書。安価な出版物)につかう安っぽい紙ではなく、奉書である。元来は、平安期の院宣、室町将軍の御教書(みきょうしょ)や戦国大名の下知状といったおもおもしい内容を書きしるすために用いられた。
 江戸期では、社寺の行事、庶民の婚礼などごくふつうの、しかし多少あらたまった行事にはこれが用いられた。障子紙や行灯にはる紙も、これに類したものであった。ともかくも、しわがなく、純白で、きめのうつくしいのが、越前奉書紙である。
 一方、鳥子紙は、紙の王といわれたりした。(中略)紙の色は、鶏卵の殻の色―クリーム色―を帯びている。この鳥子紙についても、室町時代以降、越前のものが第一等といわれつづけた。
 越前が、これら上質紙の製紙に卓越していたのは、ひとつには小国であるわりには歴史的に大小の寺院が多く、紙の需要がさかんなうえに、品質管理もうるさかったからであろう。》(p188-189「紙と漆」)



上は曙覧の家の様子の参考として。曙覧は土間に直に机を置いて本を読んでいた。それは貧しかったからでもあるが、当時の小規模な民家はだいたいそのようなつくりになっていたからだとも言える。
下は越前の紙について。この引用の前に越前和紙の歴史の解説がある。正玄の家で扱っていたのは上質の紙だったのではないか。だとすれば取引先は寺社、藩向けが中心か。他国に卸すものもあったかもしれない。正玄の家の商売の様子、それにもまして曙覧が育った府中の山本家の雰囲気が知りたい。

写真、ジェノヴァの水族館。
by konohana-bunko | 2007-10-10 22:35 | 空中底辺 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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