『近世歌人の思想』 玉城徹
2007年 12月 06日
「木下長嘯子の世界」という章の中で、芭蕉の話が出てきたところがつよく印象に残った。前後がないと伝わらないかとは思うが、引用してみる。
《それにつけて、思い出されるのは、芭蕉が『野ざらし紀行』中の一節です。「猿を聞人捨子に秋の風いかに」。
いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ、唯これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ。
富士川のほとりで、あわれげに泣く捨て子に、芭蕉は、「袂より喰物なげて」通り過ぎた。》(p327)
《近代の解釈が、芭蕉像を「人間的に」(余りに人間的に)樹立せむとする余りに、ここに捨て子を救い得ない自分の無力さへの痛恨を見ようとしたりすることに、わたしは賛成しがたい。芭蕉の目標は、どこまでも「汝が性のつたなきを泣け」という命題の設定にあった。そして、芭蕉自身、みずからの性のつたなきを泣こうという意志の、それは、表現であったのです。》(p328)
《雪の山いただく市女商人も老はうられぬ物にぞありける
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
単に同情などと言ってはまずいでしょう。それより存在することの悲哀に対する、かぎりない感情の波動が、見られます。「汝が性のつたなきを泣け」としか言いようのない、いわば、お手あげの暗さの中から、しかし、ぽっかりと青空のように笑いがさしのぞくといった具合です。》(p368-369)
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「汝のつたなきを泣け」。本の内容をまったく離れて、このことばがこころにひびく。何や、そんだけでよかったんやん、と思う。泣いて、気が済んだら、ご飯を食べることを考えればいい。誰の頭の上にも、青空はあるのだ。