『オランダ紀行 街道をゆく35』  司馬遼太郎

黄砂でベランダの手すりが白く汚れている。雑巾で拭いたらタオルが黒くなった。黄砂って何色。
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『オランダ紀行』を読む。司馬さんはオランダが好きだったんだなあと思う。それも、和蘭、阿蘭陀と表記する時代のオランダ。司馬さんが旅をしたのは現代のオランダで、書かれているのも現実のオランダなのだけれど、もしわたしが今飛行機に乗って現地に行っても、ここに出てくる情景を実際に体験することはできないだろう。見るものはみなうつくしく、会う人はみな、いい人ばかりだ。この本の中に存在するのは、司馬さんの親愛の情というフィルターを通した、古きよきオランダだけなのだ。

当たり前のことだけれど、現実の国家や、社会や、人間にはもっと汚いところもえげつないところもある。例えば歴史を振り返るにしても、オランダと日本は比較的よい間柄を保つことができた(日本側から言えば、オランダから受けた恩恵は計り知れない)。しかし、オランダとインドネシアはどうだったか。『台湾紀行』では植民地統治についてたくさん触れていたが、この本では蘭印の強制栽培制度などには一切触れていない。

そういう「闇」の部分が書かれていないためか、『オランダ紀行』には(こんなにのびのびしてええんかいな、と思えるくらい)牧歌的な空気が流れている。読み手は、その筆のリズムにひきこまれて、ほのぼのとこころを開かれてゆく。和む。何だかんだ言って結局、物識りの親戚の伯父さんみたいな司馬さんの語り口が好きだ。

以下引用。

《オランダ人は、好んで魚をたべる。
紀元前から、主食であるかのようにして魚を食べてきた。
おそらく十七世紀の黄金時代になってから、酪農製品や牛、羊などが食卓を賑わせるようになったかとおもえる。そのころから身長も高くなったのではないか。
身長についてはのちにも触れるが、いまオランダ人は、欧州随一に平均身長が高いという。十七世紀以前はそうでもなかったような気がする。
話が、それた。魚をたべるはなしである。前にものべたが、紀元前、ローマのカエサル――シーザー――が『ガリア戦記』のなかで、

中には魚と鳥の卵で生活していると思われるものもある。(岩波文庫・近山金次訳)

といっているように、この低地地方では魚を多食してきた歴史がふるい。
魚といっても、とくにニシン(鰊・鯡・春告魚)である。
ニシンは、北海でたくさんとれる。オランダだけでなく、北海を共有している北欧諸国のひとびとも、この寒帯性の回遊魚を多食してきたが、オランダほどではなかったようである。
オランダでは、ニシンという食べものは、儀礼の対象でさえあった。
春一番に獲れたニシンを、江戸っ子の初鰹のように縁起ものとして食べ、その食べかたも、古式(?)にのっとり、シッポをつまんで、大口をあけて、ほとんど生で賞味するのである。
春一番のニシンは、女王陛下にも献上する。
「女王陛下も、シッポをつまんで?」
と、ティルさんにきいてみた。
「それは知りません」
彼女がユーモリストであることはすでにふれた。邪気のない含み笑いをしながら、「ちょっと話はちがいますけど」と、車窓から、青い牧草地を指さした。
この話はホールンという海港の町へゆく途中でのことで、両側は見わたすかぎり牧場がつづいている。
ながい冬がおわって春がはじまるときに、ニシンがとれるのだが、同時に牧草のあいだに棲んでいるキフィト(kievit)という鳥も、卵を生む。
「キフィトはへんな鳥で」
と、ティルさんは、笑った。
かれらは脚が達者で、どんどん歩いて用をすましてしまい、鳥のくせに飛ぶことはあまりしない。牧畜民でもあるオランダ人は、牧草地に棲むキフィトにも愛を感じているようで、脚を痛めた人などが、やっとなおると“キフィトほどには歩けるようになりました”と友人たちにあいさつするらしい。キフィトとは、ひょっとするとクイナのことだろうか。(引用者註:キフィト=タゲリ。)
ティルさんによると、キフィトの卵は緑っぽい茶色だそうである。まだ冬が去りやらぬ牧場でその卵をみつけると、ひとびとは春のさきがけとして大よろこびする。
そのよろこびが儀式化されて、いちばんにキフィトの卵をみつけた人は、女王さまに献上して、ごほうびがいただけるそうである。
「ごほうびは毎年の行事ですか」
「毎年です」
むろん、みつけた人は新聞に出る。ニシンといい、キフィトの卵といい、いかにオランダ人が春を待ちかねているかということでもあるが、一方、シーザーがいう「魚と鳥の卵で生活している」という古俗がかすかながらも儀式として生きているのではないか。》(「鰊学校」p95-97)
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ふたたび引用。

《一昨年、キンデルダイクを訪ねた。
風車がたくさんまわっている野の片すみに咸臨丸を生んだ造船所があって、小さな規模ながらまだ稼動していた。
造船所の建物の裏に空地があって、ライン川に臨んでいる。その空地に、咸臨丸のキールがすえられた、という。船腹ができあがると、ここからライン川の水のなかにすべりおりて進水した。
そういう話を、造船所の人が、きのうのことのように話してくれた。
「むかし、この堤に赤ちゃんが流れついたといいます」
と、造船所の人がいった。地名についての伝説で、むろんはるかなむかしのことである。洪水のあとのことだろうか。
赤ちゃんが乗っていたのはまるい板で、いっぴきの猫と一緒だった。赤ちゃんが寝返りを打って板が傾くと、猫がすばやく体重を他に移して平衡をたもちながら流れついたというお話である。
オランダ語で堤のことをダイク(dijk)という。猫はカット(kat)で、流れついた猫にちなむ猫堤(カッテンダイク)という地名も、キンデルダイクの近くにある。
その地名を負った家にうまれて海軍軍人になり、日本にきて勝海舟らを教えたのが、ファン・カッテンディーケ少佐だった。この国では地名はダイクといい、家名のほうはディーケというならわしになっているらしい。
カッテンディーケは長崎で二年あまり海軍を教えてオランダに帰り、後年、海軍大臣になったりした。著作に『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳・平凡社東洋文庫)がある。
咸臨丸は赤ちゃん堤で誕生し、「地獄への第一歩の水門」港から、猫堤さんに操艦されて日本にきたことをおもうと、童話に似ている。》(「『地獄への第一歩の水門』港」p241-243)

引用終わり。こうして写してみると、結構ひらがなに開いていることばが多いのに気付く。
by konohana-bunko | 2008-03-19 22:37 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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