三文紳士とか町田康とか

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本を読み終えたら(感想いうたら大層やけど、何かちょっとメモくらいは書いときたいナ)と思って、机の上に置く。置いたらその上にまた本が乗る。それも読み了えた本だけではなくていただいた本とか新しく買った本とかこれから出品する本とかどんどん積み重なってゆく。おーいアレはどこへ行った。そもそもアレとはドレや。わー崩れる。

『人生を救え!』 (町田康/いしいしんじ、角川文庫)より、対談の部分を引用。

いしい 「俺はキティちゃんなんていうてたまるか」ってひとがいたとします。「あんな猫、キティとしか呼ばん」と。このひとはえらい強情なひとで、ほかにも「うさちゃん?へっ、知るかい、そんなもん俺は『うさ』でええ!」
町田 「サザエさん?『サザエ』や!」
いしい 本屋で「サザエくれ」と。
町田 店員もわけがわからない。(「仮説の空、仮説の苦悩」p249-250)

『三文紳士』 (吉田健一、講談社文芸文庫)

これはまた滅法面白かった。ひとつひとつ短い話が多いから、まるごと書き写したいくらい。以下引用。

〈母親の声を今になってやっと思い出したりするのは、一つはこういうことがある。子供というのは普通、女に囲まれて暮すもので、叱ったり、ものを言い付けたり、したくもない勉強を無理にさせたりするのは皆女だから、女と言えば先ず一様に敵であり、敵だということから皆同じ有難くない存在に見えて来て、それで一人一人の特色という風なものは、余り印象に残らないのではないだろうか。その上に、男の子にとっては男性の魅力というものがあって、男の大人と直接の交渉はそれ程ない代りに、自分がしたくてまだ出来ないこと、例えば戦争に行くとか、電車を運転するとか、岩見重太郎のようにお酒を一斗八升飲むとかいうことは皆男がすることであり、そういう男に対する憧れから、女などは一層どうでもいい存在になって、それでいてその女とばかり始終一緒にいるのだから、母親を懐かしむなどというのは母親の味を知らない子供がすることである。それが母親も子供の方も、両方とも大人になってから色々に修正されるのだろうが、その点は家の母とのそういう期間が短か過ぎもしなかった代わりに、余り長くもなかった。(「母に就て」p10)

〈母のもう一つの特徴は子供と動物、そして動物の中では殊に犬を恐しく可愛がることだった。奇声を発してまでの可愛がり方で、その顔を可愛がられている犬や子供が驚いて見上げていた。だから母が今生きていたら、家の子供も犬も母に取り殺されていたかも知れない。併しそれ故に、子供が生まれる前に母が死んでよかったとは、まさか思う気になれずにいる。やはり、長生きして貰いたかったものである。〉(同上、p12)

写真はこの吉田健一を買った十月書林さん。
Commented by keiichi at 2008-09-12 00:56 x
吉田健一といえば、話題のタローくんの「おじさん」ですねえ :-)

「三文紳士」、1950年代に出た本を若いころに古本屋で見つけて読んだことがありますが、細かいことは忘れてしまったなあ。引用の文章には、見覚えがあります。文庫を買い直して、また読んでみようかしら。

吉田健一は、久生十蘭の短編を英訳して賞を取らせてしまうわけですが、それくらい母語以外の言語に堪能になってみたいものです。
Commented by konohana-bunko at 2008-09-16 08:28
keiichiさま これは再読される値打ちがありますよ。きっと。わたしも他の著書を探して、しばらく追っかけてみようかなと思っています。
by konohana-bunko | 2008-09-11 22:29 | 読書雑感 | Comments(2)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


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