『日記をつける』  荒川洋治

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井上荒野さんだったか、お父さんが物書きで自分も小説家になった人の談話が、ちょっと前の新聞に出ていた。
その人はこどもの頃から、お父さんから、文章について批評を受け続けてきたのだという。
――例えば夏休みに、宿題の絵日記を書くとする。「何月何日晴れ。今日は……しました」と書くと、お父さんが
「日記は今日のことに決まっているだろう」
と言う。そこで「わたしは……しました」と書けば、またお父さんが
「日記なんだから『わたし』がしたに決まっているだろう」と言う、そんな親子だった、といった話。
(へええ)と、ちょっと印象に残ったのだった。

荒川洋治『日記をつける』(岩波アクティブ新書)を読む。それこそ夏休みの絵日記から、文豪の日記まで、いろんな日記の話が出てくる。日記から小説やエッセイが生まれたりすること、和歌/短歌と日記の親和性などの話の流れの中で、俳句のことに触れている部分が面白かった。以下引用。

〈俳句と日記の関わりも深い。またその関係はユニークなものだと思う。ぼくは俳句を見るたびに(俳句をつくったことがないのでそう思うのだろうが)思う。俳句はどのようにして生まれるのだろうと。
名句といえば、高浜虚子であろう。まあ、これだけすごいものをよくもいっぱいつくったものだと思う。
(中略)
俳句は普通、あちこち歩いて、その場で浮かぶ。吟行である。だが、いくら名人でもいきなり、いいものが飛び出すものではない。ひとつふたつそこでつくって、それを竹とんぼのように飛ばしてみて、あら、落ちた、なんてこともしょっちゅう。
同じものを詠むにしても、何度か、五七五の一部をとりかえて、これはどう、ならばこれはと、ぶつぶついいながら、ひねる。そして「鞍馬の秋二十句」などという題で雑誌などに発表されるのである。その意味では実にはらはらどきどきなのだ。きわどいものなのだ。
名句の前後には、平凡な句が並ぶことになる。その虚子の『小諸百句』(昭和二一年)から、ひとつながりにつくられた句と思われるところを引く。そこに掲載された順序で、おそらくつくられたはずである。

初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ
初蝶が来ぬ炬燵より首を曲げ
初蝶の其後の蝶今日は見し
うるほへる天神地祇や春の雨
懐古園落花の萼(うてな)を踏みて訪ふ
ものかげの黒くうるほふ春の土
山国の蝶をあらしと思はずや

虚子は「初蝶」ではじめるもので、なんとかひとついいものをと思って「初蝶」「初蝶」と呪文のごとく唱えたが、失敗。少しその小諸・懐古園でぶらぶら。あっちこっちと見回したが、浮かばない。というときに、蝶を、うしろへやることに気づいて、「山国の蝶をあらしと思はずや」(注・「あらし」ではなく「荒し」とする本もある)。あっけなく、いい句が飛び出した。しめしめ、というところか。
いっぽう苦しいときは苦しい。「山寺に」「山寺に」などと、同じアタマが二句、三句とつづいているところや、「春眠の」「春眠を」「春眠や」「春眠の」とまるでリンカーンの「人民の」みたいに、ことばを撃ちつづけて苦しんでいる例もある。まさに苦吟である。
このようにあれこれをためし、時機をを待つ、あるいは少しずつしぼりこんでいく。これが俳句のつくり方のひとつであろう。一日、一時を五七五であらわす。それが俳句の本質である。だから俳句という日記の一日はつねに書き換えられる定めなのだ。また書き換えられることに、いのちがある。蝶が、まんなかに飛び込むまで?長い一日がつづく。
ことばを換えれば無駄の多い長い一日だ。そしていちばん良い一日が出るまで、がんばるのだ。ねばるのだ。くたびれるのだ。それが俳句なのであろう。〉

引用終わり。これらの句が本当にこんなプロセスを経て書かれたのかどうかはわからないけれど、確かにこんな風に句を作ることはあると思う。こういう一種の「謎解き」の文章も、面白い。

一句(一首)ができる過程、何がきっかけになり、どんな企みが仕組まれ、読者にどうぶつけられるか。このプロセスを、俳句(短歌)の実作者が赤裸々に書いたら、面白い読み物になるのではないかと思うのだが。どうだろう。
実作者ではないが、短歌俳句を愛し、実作者の心理にもよく通じた第三者が書いた本なら、ある。小林恭二の『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』そして『短歌パラダイス』(いずれも岩波新書)だ。この3冊は大事に大事に本棚に並べてある。大人になってからこんな「血湧き肉躍る本」にはなかなか、会えそうで会えない。
by konohana-bunko | 2008-10-01 21:26 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり