カテゴリ:読書雑感( 263 )

うたあつめ1 風景、欠けた。

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「うたあつめ1 風景、欠けた。」 とみいえひろこ (2013年7月16日発行)より、すこしだけ以下引用。



にゃあ、と泣いた。ニセモノ入れのかんかんにニャア子の夜のひげをしまいぬ

わかる、どうして石が濡れてとどまっていたのか初夏白昼

向うには港、朝鳥、声、大人、海辺、あこがれ、桜、空、空

湯が冷めて脚から青い光り流れつらさうな女が濯がれてゐる

藻 ゆらゆら オレンヂが降る とまる泡 おちる泡 藻の糸がきしんで

線に潜りわたしは奔る絹糸を吐くほどに細く見えなくなって



とみいえさんの歌を読んでいると、不思議な既視感にかられる。知らない筈、体験していない筈のことなのに、身体の深い部分が勝手に(知ってる、知ってる)(でも違う)(わからない、わからない)と、とめどなく共鳴りを始める。あまりじーっと繰り返し読んでいると、その共鳴に内から小さく破壊されて、身体から何かが滲み出てしまいそうなので、そこがちょっと(いい意味で)怖かったりもする。きっと、好きなんだな。わたしはとみいえさんの歌が。
by konohana-bunko | 2013-09-04 20:31 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 葉月

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『シルバー・バーチの霊訓(五)』  A・W・オースティン編  近藤千雄訳  潮文社
『シルバー・バーチの霊訓(二)』  シルビア・バーバネル編  近藤千雄訳  潮文社
『檸檬』  梶井基次郎  新潮文庫  (再読)
『白光への道』  五井昌久  白光出版
『光明をつかむ』  五井昌久  白光出版
『魔法使いのおともだち』  東君平  サンリオ
『きょうのおべんとうなんだろな』(絵本)  きしだえりこ さく やまわきゆりこ え 福音館書店
『野の草花』(絵本)  古矢一穂 ぶん 高森登志夫 え 福音館書店 かがくのほん
『遠い朝の本たち』  須賀敦子  ちくま文庫
「南方熊楠の世界」  徳間書店 TOWN MOOK
『心が楽になるホ・オポノポノの教え』  イハレアカラ・ヒューレン  イースト・プレス
『故郷に帰る道』  ホワイト・イーグル  大内博訳  ナチュラル・スピリット
『窮巷雑歌』(歌集)  玉城徹  不識書院  (再読)
by konohana-bunko | 2013-09-04 20:04 | 読書雑感 | Comments(3)

『身心快楽 自伝』 武田泰淳

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武田泰淳『身心快楽 自伝』(創樹社/1977)より、以下引用。

〈「世間知らず」のもう一つの美点は「この世間には俺とは段ちがいに偉い奴がいるだろうな」と、いつでも思いつめていることである。偉い奴は一体どのくらい偉いのだろうかと、つとめて難しい大著述などをよみたがる。半ぶんか十分の一しか理解できないでも、むずかしい物を読む面白さは、一度味をおぼえたら、決して忘れるものではない。やさしい物にも面白みは沢山あるが、どちらかと言えぼ、むずかしい物の面白みの方が、永つづきがするものだ。
 同じ職業の男に、自分よりウワテの奴がウヨウヨいることは、つらくてたまらぬことではあるが、また愉快なことでもある。かなわぬながら、彼らに意地わるしてやろうとする心が動機になって、いくらかマシな作品が書けることだってありうるからだ。しかも、この種の意地わるを、相手に気づかれぬように実施する腕は、どんな鈍い男でも、次第に上達することは、明らかである。〉
(p52-23「PRあるいはCM的自伝」)

〈うちの女房は、マル・エン全集の広告など見て、マルクス・エンゲルスは一人の男、つまり姓はマルクス、名はエンゲルスだと信じていたそうだ。なにしろピカソをピカリと呼んでいたくらいだから不思議でもない。私の資本論ロンも、彼女の学識とさしてかおりないものであるにちがいない。
 ただし、次のことは断言できるのではあるまいか。物を書く人間は、常に恥ずかしいという心を失ってはならない。大きな書物を読めば、その著者の努力の蓄積に脱帽して、自分が恥ずかしくなる。おごりたかぶる気持ちが消える。その本を利用して、直接行動を起こすより前に、その知恵の大海に沈んで、ふかい思いにふける。その意味では、資本論は一種の芸術的陶酔をあたえてくれるものであった。〉
(p81-82「私と『資本論』」)

〈(頭略)実にさわがしい女が一人目にとまったことがある。それは喧嘩をして夫にぶたれた女らしく、汚い顔を血だらけにして大きな声で泣きながらやってきたのである。昼休みに日向ぼっこのためクリークの石橋の上にいた私共の方へ泣きながらその女はやってきた。後から母親らしい老人が心配そうについてきて、またその後から野次馬がゾロゾロついてきた。私は血だらけの中年女は気味悪くなってタジタジとなり構いつけないで立っていた。女はまだ泣き騒いで私共を困らせてから街を歩いて行った。私共独身者が、どうして支那の中年女の夫婦喧嘩の裁きがつけられようか。その時の歌。恐ろしや支那の女の喧嘩して顔に血塗りて橋わたり来る。愛すべき風景の中に生活するこれらの愛すべき支那の人々を眺めていた杭州の春は、私の心に春愁ともいうべき一つの永い悲哀を植えつけたものであった。半ば意識的に荒々しきもののなかに悲哀を見出そうと努めたのかもしれない。若い時に異国に行くとたぶん誰でもそうするのではあるまいか。〉
(p176「杭州の春のこと」)
    
そしてひとつの詩の後半の部分を。題は「北京の輩に寄するの詩」。

〈街に三歳の児童ありて煙草を吸い
村に百歳の老婆ありて薪を背負う
かかる楽園の首都にて
自分でわからぬT(ター)君の脳と
酔えば人を蹴るI(イー)君の脛と
ひどく重たきC(チー)君の腰と
何やらかきまわしてるS(サー)君の指と
これらの肉体の部分品よ
やがてちぐはぐのお前達の中から
どんな子供が生れようが
大陸の事だ、かまうものか
そして産後の一寝入りをしたら
蛇のお母さんのように
ゆっくりと穴から出ようではないか

――安徽省の街から――〉
(p152-153「北京の輩に寄するの詩」)

読んだ感想を書けたらいいのに、何と書いたらいいのか。
――とにかく大きな人を遠目に見て、見ただけで、お腹がどすんと重くなった。それは、気持ち悪い重さではなくて、栄養の濃いものをたくさん食べた時のような感じで――。
こんな感想では、小学校の夏休みの宿題にも提出できそうにないが。
by konohana-bunko | 2013-08-24 09:51 | 読書雑感 | Comments(0)

『トリエステの坂道』  須賀敦子

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『トリエステの坂道』  須賀敦子 (みすず書房/1995) を読んだ。須賀敦子さん、ずっと前から本だけ買って手つかずだった。(今はなきBerlin Booksさんで!)読めてよかったなあ。もっと早く読んでもよかったかも。

以下、特にお気に入りの部分を引用。

〈丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。時代がかった喜劇役者みたいに靴の大きさばかりが目立つ長身の老人が戸口の階段に腰かけ、合わせた両手をひざの前につき出すようにした恰好で、ぼんやりと通行人を眺めている。車はほとんど通らない。軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。〉(p17「 トリエステの坂道」)

〈夫の実家だった鉄道官舎は、そのガードをくぐったところのすぐ左手にあったし、彼が勤めていた書店は、ドゥオモのすぐそばだった。だから、結婚するまえも、してからも、外出ぎらいの彼が利用する交通機関は35番の電車だけだった。私は私で、一九六〇年にそれまで勉強していたローマを引きはらってミラノに住むようになったとき、家がみつかるまで泊めてもらっていたモッツァーティ家が、おなじ電車道に沿っていたから、夫の実家をたずねるときも、書店に出かけるときも、35番に乗った。そればかりか、六一年に結婚したとき、夫の友人のティーノが格安の家賃でいいから、知っている人に住んでほしいと空けてくれたアパートメントが、またまたモッツァーティ家と道をへだてた真向いだったので、交通にかんするかぎり、私のミラノ暮しはすべて35番の星の下にあったといってよかった。
結婚してまもないある日、夫の帰りがおそくて、どうなったのかと気をもんだことがあった。書店を出るときに電話をくれたから、ふつうなら二十分で家につく。いくら電車がこなくても、三十分はかからない。道でなにかあったのではと気になりはじめたとき、彼がそっとドアの鍵をあけて入ってきた。どうしたの、ちょっと心配した、というと、彼はてれくさそうにつぶやいた。「うっかりして、お母さんのところに帰っちゃった」
結婚そうそう、35番の電車に、ふたりしてからかわれたようなものだった。〉(p32-33「電車通」)

〈イタリア語でなんていうの、この花、おかあさん。葉のあいだからつぎつぎに匍い出す赤く透きとおったアリを指先でつぶしながら、私は寝室の戸棚のまえでいつまでもごとごと音をさせているしゅうとめに問いかけた。声がはずんでいたかも知れない。日本にしか咲かないと信じこんでいた紫苑が、いちどにこんなたくさん、いきなり目のまえに置かれたのだったから。名前って。たたみかけるような私の口調に、しゅうとめは、大きな花瓶をかかえて入ってきながら、怪訝そうな顔をした。
この辺ではセッテンブリーニつて呼んでるけど。花っていうほどのものでもないし、ちゃんとした名かどうかも、知らないわ。
ふうん、セッテンブリーニねえ。小声でその名を繰り返しながら、私は思った。なんて簡単な名だろう。九月に咲くから、九月っこ、か。
きれいな花よね。そういうと、無類の花好きだったしゅうとめは、大げさな、という顔をして笑うと、いった。さあねえ。きれいだかなんだか、よくわからないけれど、私は好きだわねえ。かわいらしくて。
紫苑。おそらくは菊の一族なのだろう、ぱっと目立つ花ではないけれど、紫苑という漢字はゆかしいし、だいいち、シオンという音のひびきがさわやかである。高く伸びて、野菊に似たむらさきの小花をまばらな星座のように濃い緑の葉のあいたに咲かせる、あの濡れたような色や、すらりと伸びる姿が好かれるのだろうか。野の花にしては華やかだが、栽培される花にしては野趣が濃い。〉(p131「セレネッラの咲くころ」)

「さあねえ。きれいだかなんだか、よくわからないけど、私は好きだわねえ。かわいらしくて。」このお姑さんの台詞の直前まで読み進んできたところで、(あ、お母さんきっと、こんな風に言わはる)という予感がして、その予感通りの台詞がなめらかに続いた時には、うれしさでぞくぞくした。
まさにこんな風に話す年上の女性を知っている。わたしの大好きな人だ。



写真は天保山運河にて。
by konohana-bunko | 2013-08-06 22:23 | 読書雑感 | Comments(2)

『漢字百話』  白川静

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『漢字百話』 白川静 (中公文庫/2002)より、以下引用。

白川さんの本は、岩波新書の『漢字』に続いて2冊目。内容はもちろん、漢字のなりたちについて、いろいろ。ほお、そうなんや!知らんかった!がいっぱいで面白かった。

漢字のなりたちについて書かれているのと同時に、漢字が生まれた頃の、漢字のふるさとの人のくらしが描かれている。身体に入れ墨を施し、あらゆることについて常に神に伺いをたて、犬や人を生け贄として埋め、巫女に歌わせ舞わせまたそれを撲り犠牲にする。
例えば「口」は、ものを食べたりしゃべったりする口ではなく、神のお告げを受ける器のかたち……といった風に、文字から昔の人の生き方や思想をあきらかにしてゆく様子は、土器や遺跡から昔の人の生活を探ろうとするのに似ていると思った。

ブログに引用しようとすると、肝心の文字をどう表示させたらいいのかわからない。できる範囲で、ちょっとだけ引用。

〈畿は田土に対する清めを行う意であろう。幾は戈(か)に呪飾をつけて邪気を祓うことであるが、それで田土を清める。(中略)
近畿とは、このようにして祓い清められ、邪霊異神の住みつく恐れのないところである。〉

迂闊にも、この本を読むまで「近畿」の意味を知らなかった!近畿ってこんないい意味のことばだったんだ……。

〈愛は心のこりに後をふりむいて歎く形である。〉

〈烏は象形字であるが、その字形はふしぎに生気を失った形にかかれている。下体は力なく垂れ、何かに繋けられているようにみえる。烏を孝鳥などというのは後世のことで、この色黒く貪慾にして忌憚なき鳥は、古くから悪鳥とされていたことは疑いない。『詩経』にも「誰か烏の雌雄を知らんや」(小雅『正月』)と歌われ、名うてのやくざものにもたとえられる。作物を荒らす烏は、いまも農作地でよく行われるように、季節どきには殺して木の枝や縄にかけわたして、烏よけに使われたのであろう。金文にみえる烏は、どうみてもその悪たれ烏のさらされているすがたである。〉

〈読書を愛するものにとって、いくらかの知的開拓や緊張を伴わぬ読書は、読書というに価しない。〉

御意!



写真、蓮の花を撮りに行った時に出会ったカルガモ。畦道をこちらに向かって歩いて来て、右の田圃にぽちゃんとはまり、お尻をふりふり泳いでいった。
by konohana-bunko | 2013-08-04 12:09 | 読書雑感 | Comments(6)

読書の記録 文月

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『思い出トランプ』  向田邦子 新潮社
『ほほえみの首飾り』  美輪明宏 水書房
『心はゴムひも?!』  立花大敬 本心庵
『医者の世話にならない生きかた』  渥美和彦 ダイヤモンド社
『トリエステの坂道』  須賀敦子 みすず書房
『ふるさとは赤』(歌集) 三原由起子 本阿弥書店
『みんなのベロニカ』(絵本)  ロジャー・デュボアザン さく・え 神宮輝夫訳 童話館出版
『チューチューこいぬ』(絵本)  長新太さく BL出版
『ちいさな木ぼりのおひゃくしょうさん』(絵本) ダルグリーシュぶん アニタ・ローベルえ 星川菜津代訳 童話館出版
『生んでくれてありがとう』(絵本)  葉祥明 絵・文 サンマーク出版
『うさぎとおんどりときつね』(絵本)  レーベデフ文・絵 うちだりさこ訳 岩波書店
『おやすみなさい おつきさま』(絵本)  マーガレット・ワイズ・ブラウンさく クレメント・ハードえ せたていじ訳 評論社
『ぞうさんレレブム』(絵本) シュレーダー文・絵 矢川澄子訳 岩波書店
『漢字百話』  白川静 中公文庫
『うたのてんらんかい』(絵本) くどうなおこ・うた 長新太・え
by konohana-bunko | 2013-08-04 11:17 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 水無月

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『とおいところへいきたいな』(絵本) モーリス・センダック じんぐうてるお訳 冨山房
『身心快楽 自伝』  武田泰淳 創樹社
『愛の選択』  ドン・ミゲル・ルイス 高瀬千尋訳 高瀬千図監訳 コスモス・ライブラリー
『子どもに教わるおとなが知らないおかねの話』  七田眞 扶桑社
『SOMEDAY いつかはきっと…』(絵本)  シャーロット・ゾロトフぶん アーノルド・ローベルえ 矢川澄子訳 ほるぷ社
『自分を愛するたましいのレッスン』  ソニア・ショケット 奥野節子訳 ダイヤモンド社
『日本人とユダヤ人』  イザヤ・ベンダサン 山本書店
by konohana-bunko | 2013-07-04 21:03 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 皐月

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『「福」に憑かれた男』  喜多川泰  総合法令
『だんな様は霊能力者』  くみ  ダイヤモンド社
『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』  ドン・ボスコ社
『Cats in the Sun』 (写真集)  Hans Silvester  TREVILLE
「天然生活」  VOL.97  2013年2月号 編み物ABC
『3分間でできる健康体操 真向法』  真向法普及会  朝日ソノラマ
『窓、その他』 (歌集)  内山晶太  六花書林
『石泉』 (歌集)  斎藤茂吉  短歌新聞社文庫
『トリサンナイタ』 (歌集)  大口玲子  角川文芸出版
『物狂ほしけれ』  車谷長吉  平凡社
『運命を恐れるな』  五井昌久  白光真宏会出版局
『青雨記』 (歌集)  高木佳子  いりの舎
『ALOHA! ヒューレン博士とホ・オポノポノの言葉』  平良アイリーン著 イハレアカラ・ヒューレン監修  サンマーク出版
『自分をまもる本 いじめ、もうがまんしない』  ローズマリー・ストーンズ著 小島希里訳 晶文社
『神と人間』  五井昌久  白光真宏会出版局

真向法、5月から毎日試しているところ。とりあえず立位体前屈で床に指先がつくようにはなった。(個人的には大躍進。)

写真、中之島公園にて。子雀。嘴の横が黄色だった。
by konohana-bunko | 2013-06-08 22:04 | 読書雑感 | Comments(0)

読書メモ 山田航歌集 『さよならバグ・チルドレン』

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山田航歌集『さよならバグ・チルドレン』(ふらんす堂/2012年)より、以下引用。

地球儀をまはせば雲のなき世界あらはなるまま昏れてゆくのか

掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木漏れ日のなか

よく懐く仔犬のやうに絡みつくつむじ風反時計回りの

放課後の窓の茜の中にゐてとろいめらいとまどろむきみは

てのひらをくすぐりながらぼくたちは渚辺といふ世界を歩む

りすんみい 齧りついたきりそのままの青林檎まだきらきらの歯型

水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ

つむじから風は螺旋に身をくだり足にはぼろぼろのコンバース

金曜九時。落ち合ふ場所は禁猟区。逢瀬と呼んで構ひはしない――

選択肢は三つ ポピーに水を遣る、猫を飼ふ、ぼくの恋人になる

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく

またの名を望郷魚わがてのひらの生命線を今夜ものぼる

嘘を吐くさまも愛しき少女より盗み来たれる緋のトゥ・シューズ

アヌビアス・ナナ水槽に揺れてゐて ナナ、ナナ、きみの残像がある

それでも僕は未来が好きさしんしんと雪降るゆふぐれの時計展

真つ白な闇なるものもあるらしく除雪夫の服ぴかぴか光る

進水式の朝の、涙が羽をもち南へ向かふ朝の、訪れ

ナインチェ・プラウス 横顔は無く本当にかなしいときは後ろを向くの

粉雪のひとつひとつが魚へと変はる濡れたる睫毛のうへで



(雑感メモ)

ジャケットは、白地に青の不規則な水玉柄。青みのある本に、偶然手許にあった青い付箋を貼りながら読んだ。読後抜き書きを作ろうと机の横に積んでから、長い時間が経ってしまった。写し書きをしながら付箋を剥がしていると、本がため息をついているように思えた。

若々しい歌が並んでいる。「金曜九時。落ち合ふ場所は禁猟区。逢瀬と呼んで構ひはしない――」という、いい意味で気恥ずかしい歌もあって、いいぞいいぞ第一歌集、と言いたくなる。口語混じりとはいえ、表現に危なげがなく、スムーズに歌の世界に浸って楽しめた。

あとがきの内容はやや予想外だった。山田さん、そうなの?あなた、こんなにそつなく歌が詠めて達意の文章が書ける人なのに?と。ホームランが打ちたかったとか、マリオネットのように操られたいとか……そういう「繰り言」というのは、自分を(もう少し、あるいはもっと?)思うさま操りたいのに操れない、その行き場のないもどかしさの裏返しなのだろうか。……そんな単純なものでもないのか。



写真、なんばパークスにて。
by konohana-bunko | 2013-05-29 17:26 | 読書雑感 | Comments(0)

読書メモ 高木佳子歌集 『青雨記』

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高木佳子歌集『青雨記』(いりの舎/2012年)より、以下引用。

跳び箱の帆布ましろく開脚の少女は一瞬つばさある魚

少女冷ゆ はつかにみづを匂はせて白き靴下はきしそのとき

湿りたる耳いぢりつつスタイラス・ペンにて描きゆく鳥

蟻の壜忘れてありぬ 今のいまたふれて蟻のあふれむとする

てのひらに蟻歩ましめてのひらに限りのあれば戻りきたりぬ

橋脚のつけねのあたり時折に水あたるごと生きがたきかな

刈られたる草の全きたふれふし辺りの空気あをみ帯びたり

湿りたるゑのころ折りて雨止みし夕べを帰る帰るとは何

この椅子の脚いつぽんのゆらゆらとゆるみゐるなり歩き出すらむか

無音なるテレビのなかに跳躍の棒高跳びの選手うらがへり

ただけふを古びゆくなり皿のうへ蜂蜜パイの倒る殆ど

雨後の海のさびしさ 濁りたる青にふたたび陽の射すまでを

ひやしんす水に浸してそのみづの下のあたりを覆へりくらく

あざあざとクレヨンの朱よ 白き紙、灰の雲、青の空まで

このひとに於いて吾はかあさまと呼ばるるほかになくてかあさま

あへぐ人そこにゐしかとみるかたに過熟の苺ただ転がりぬ

父はいま燃えてをらむよ菓子あまた皿に盛られて水色ももいろ

いふなれば負けつ放しの博奕打ちであつたのだ、父といふ人は

右耳の鼓膜がふるへすぎゆきに父に割られし鼓膜がふるへ

むらさきの栞の紐を小さなる馬のたづなを引くごとく引く

しづみゆく糖の崩れを見送りぬアールグレイのその深さまで

ほそき舌挿しいれしまま炎天のしばらくをゐる夏蝶の背を

空は空、ひばりひとつを含みしをけふのこととて記すことなく

海嘯ののちの汀は海の香のあたらしくして人のなきがら

熱傷も瘢痕もなきまつしろな曝されがあり垂るる白蓼

  小名浜港に誰かが看板を立てた
〈心まで汚染されてたまるか〉さうだとも、わたくしたちは真つ白な帆

魚(うろくづ)よ、まばたかざりしその眼もて吾らが立ちて歩むまでを 見よ
by konohana-bunko | 2013-05-18 20:45 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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