カテゴリ:読書雑感( 263 )

読書の記録 卯月

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『古代ハワイアンの教え フナ:三つの自己に秘められたギフト 癒しと祝福のホ・オポノポノ』  A.J.マクドナルド 山崎直仁訳  春秋社
『八木重吉・詩の祈り』  四竃経夫編著  宝文館出版
『精神科養生のコツ』  神田橋條治  岩崎学術出版社  (再読)
『しろたへ』(歌集)  佐藤佐太郎  短歌新聞社文庫
『軽風』(歌集)  佐藤佐太郎  短歌新聞社文庫
『自分の居場所のみつけかた』  斎藤学  大和書房
『木をかこう』  ブルーノ・ムナーリ作  須賀敦子訳  至光社国際版絵本
『苦界の救われ』  村田正雄  白光真宏会出版局
『弥縫録 中国名言集』  陳舜臣  中公文庫
『叡智のしずく』  モーナ・ナマラク・シメオナ/イハレアカラ・ヒューレン/カマイリ・ラファエロヴィッチ  平良アイリーン訳  SITHアジア事務局
『いいことあります』  ソーニャ・ソーケット  伊達尚美訳  デジキューブ
『司馬遼太郎の歳月』  向井敏  文藝春秋



『弥縫録』「危うきにおもむけ」の項に、竹島のスルメの話が出て来て面白かった。以下〈 〉内は引用。水産物の輸出入の歴史とか、こういう話聞くの好き。 

〈竹島でとれるスルメは、いまはどうか知らないが、戦前はじかにその身に縄を通して干すので穴があいていた。竹島の穴あきスルメといって、東南アジアの華僑も「竹島有孔*」(*=魚偏に尤)と親しんで、誰も日本のスルメであることを疑わなかったのである。〉



写真は3月26日に撮ったもの。季節は巡る。どんどん巡る。
by konohana-bunko | 2013-05-11 09:28 | 読書雑感 | Comments(0)

読書メモ 大口玲子歌集 『トリサンナイタ』

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大口玲子歌集 『トリサンナイタ』(角川短歌叢書/2012)より、以下引用。

筆先を水で洗へばおとなしく文字とならざる墨流れたり

この夜を耕されむと横たはる人体ありて人を待ちをり

酔別ののちの李白を長く思ひ独りのわれは氷を握る

大聖堂小聖堂ある教会の小聖堂に木のキリストが居る

「下駄履きは禁止」と掲げ雪の日の東北大学附属図書館

乳頭に馬のあぶらを塗りながらをりをり馬のまばたきをしつ

寒色のピカソ「母子像」八本の手首足首いづれも太し

雪の夜おもむろに子が開きたる絵本のきつねにきつねのにほひ

一時間六百円で子を預け火星の庭で本が読みたし

広瀬川おほかた凍り白鳥が泳ぎ割りたるひとところあり

瓦礫のなかにあまたの硯ありしこと電話に告げ来し夜を忘れず

引用終わり。
「吾亦紅」の章(幼児虐待のニュースを詞書にした一連)は読んでいるこちらも息が苦しくなった。
by konohana-bunko | 2013-04-28 20:30 | 読書雑感 | Comments(0)

『私の中の地獄』  武田泰淳

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武田泰淳『私の中の地獄』(筑摩書房)を読んだ。重い本だった。人間がみしっと詰まっていた。重いのは嫌いではない。ただいざメモを取る段になると、どこをどう、と選ぶ前に、錘がつけられたみたいに気持ちがずーんと本の中に沈んでしまって、(はい、ここと、ここね、はいはい)というふうに抄出することができなかった。それで読み終えてから長いこと机の横に積みっぱなしにしていた。
巻頭の表題作「私の中の地獄」に書かれているのは、父母の老いと死。妹の死。伯父の遺体の解剖に立ち会ったこと。犬を食べたこと、犬を愛玩すること。

以下引用。

《きれいなもんが好き。きたないものがきらい。これが、人間の本性だ。だが、きれいな女がほんとうに、きれいなのか。きたない女がほんとうに、きたないのか。オシャカ様の目からすれば、彼女たちは平等に、やがて変化する仮の姿にすぎない天において、全くかわりがなかった。
ただ、心がかりなのは、おそらくシャカ族の王子、シッダルタの結婚した相手の女性は、古代インド人の感覚によって「美女」と認定されたオンナであったのは、まちがいないことである。いや、それより以前に、おシャカ様の父上は、もっとも美しき母上をえらび、そして美しき我が子を生みなさった。これまた、まちがいないのである。
おシャカ様が、私の伯父など足もとにも及ばぬ美丈夫だったことを、私は信じて疑わない。仏典には、くりかえし、ホトケの姿の荘厳が書きつらねてある。みにくいホトケ、きたならしいホトケを描いた仏書には、お目にかかったことがない。
だが……。だが、原始仏教、根本仏教、教団の保持をねがわない、生まれたばかりの新鮮さを失わない仏教にとっては、地上世俗の美醜の判断を、ホトケにまでくっつけることに反対だったのではあるまいか。》(p17-18 「私の中の地獄」より)

《歯がなくなっても、肉ずきの私は、肉食を非難しようなどとは考えていない。だが、ニクを食べるとは、一体、いかなるヒューマニズムと結びつくのかな、と考えることがある。
かうて、目の前で撲殺された他家の犬を、数時間後に食べた私は、やがてドイツ種の子犬を飼い、むやみに可愛がって、ガン手術のため入院までさせた。動物に対する愛情とは、そもそも何なのだろうか。掬いがたい矛盾が、ここにある。
動物愛護週間が、くりかえされるのは、おそらく正しいであろう。弱い動物を無意味にいじめることが良いはずはないのだから。
肉屋さんにも、魚屋さんにも何の罪もありはしない。彼等がいてくれるおかげで、私たちは平気で、おいしい生物の死体をたべることができるのだから。もしも、真の罪人があるとすれば、他人に殺させておいて、自分はそれと無関係なような顔つきで、愛犬や愛猫だけ可愛がる「良心ある人」であろう。そして、まちがいなく、私もその一員なのだ。》(p24-25 「私の中の地獄」より)

《仏像のひじょうにうつくしいものをながめて、ありがたいとわたくしもおもいます。じっさいにうつくしいし、こういうものを保存しなければならない。金閣寺を訳ようなばかなまねはしたくない。ことに寺院に育っていれば、仏像をけがしたり、あるいは寺院をけがしたりするのをひじょうにきらいます。
戦国時代の歌舞伎をみると強盗が仏像をおので打ち割ってたき木にくべる場面がよくあります。仏像というのはひじょうに完成された美ですが、それをたき木にしてしまう。わたくしはそれをみてどきっとする。しかし、そのどきっとするのは、けっして強盗が仏像をこわしたことだけではない。もしかしたら強盗がこわさなくてもその仏像はこわれるんではないか、という変化の哲理が、ぼくのなかに同時に浮かびあがってくるからどきっとする。もしその強盗をとがめるだけだったら、ただ単にどきっとするだけだけれども、そういうことを自分もこころのどこかで是認しているのではないだろうか、強盗みたいに仏像を割るようなことはしないけれども、なにか天然自然の力でそれが消えうせることもまたありうるのではないか、という気持ちがこころのなかにある。それでどきんとする。》(p71 「文学と仏教」より)

一旦引用終わり。
普段人が見ないようにしている、ものごとの裏側、心の動きの裏側、影の側を、他人のものを見るような醒めた目で見て、書いたもの。自分も普段考えないでいる(考えないようにしている)ことだから、突きつけられると確かに気持ちは苦しくなる。だからといってこうした影の側について考えないでいていいとも思えない。今わたしに、この重苦しさを感じる必要があったから、この本を読んだのかもしれない。最後まで、読み通せたのかも知れない。
(読むくらいが何であろう、気楽なものではないか、これを書くことに比べれば。)



別の所から、また引用。

《「展望」(昭和四十六年六月号)の座談会「『戦後派』前史1」で椎名氏は次のように語っている。
それは、加藤武雄などの小説入門書を読んださいの若き日の感想である。
「今になれば無理もないと思うけれど、そのときは何か違うって感じがいつもするんだな。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くとうようなことを書いちゃいけないと、どの本にも書いてあるんだね。それをしなかったら人間死んじゃうじゃないかと思う。どうしてそんな重大なことがいけないのかわからない。いちばんいやな人間の苦悩を書けと言ったって、苦悩は人間にとっていちばん要らないことでしょう。わからんことだらけでね」
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くというようなことは、毎日くりかえし昨日から明日へとつづいて行く、まちがいのない現実である。そのあたりまえな現実に耐えている勤人みとって、小説入門書に示された文学的苦悩より先に、それほど苦悩ぶらない、何も特別な点のない苦悩があり、それを抜きにしては生きて行けないはずである。それなのに、「書いちゃいけない」と教えられ、しかも自分にとって最も必要でない、一ばんイヤな苦悩を書けとすすめられたときの、生活者のとまどいは簡単なものではあるまい。
とりわけ、それら平凡な俗事に新鮮な表現をあたえる方法を知らなかった文学志願者にとって、このとまどいは行手をさえぎる壁であり、拒絶であり、それだけでうんざりする難局だったにちがいない。》(p225-226「誤解の効用」より)

引用終わり。
泰淳さんがここで書いている小説の話を、わたしはつい、短歌に置き換えて読んでしまう。
平凡な俗事の中にある些細な気付きを歌に詠めたら、と短歌を始める人がたくさんいることを思う。どの新聞の、どの雑誌の投歌欄にも、日常を詠んだ歌が途絶えることなく載っている。それそのものに善悪はない。ただ、それがブンガクとなり得るかどうかはまた、別の問題、個々の歌の問題である。
かといって、「一ばんイヤな苦悩」の方も、簡単に歌に詠めるようなものではないだろう。ときに、人を歌に向かわせる圧にはなりそうだけれども。
ブンガク者だって生身の人間である以上、ブンガクになろうがなろうまいが、日常を生きなければならない。まっとうな社会生活者としてあり続けることは、それだけで一大事業である。それを、こなしつつ、一ばんイヤな苦悩とやらを脳底に常に抱え、なおかつあれやこれやの新鮮な表現を探求しようとする……。この文章を読んで、そんなことを考えた。やれやれ、ブンガク的な歌を詠もうだなんて、ほんと、もの好きな!
by konohana-bunko | 2013-04-07 08:53 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 弥生

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『しおだまりのいきもの』(絵本)  冨田百秋  福音館書店
『きゅっ きゅっ きゅっ』(絵本)  林明子  福音館書店
『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』  スタン・バラード ロジャー・グリーン共著  近藤千雄訳  ハート出版
『いのちの食べかた』  森達也  理論社YA新書 (よりみちパン!セ)
『眠りながら巨富を得る』  ジョセフ・マーフィー  大島淳一訳  産能大学出版部
『かけがえのないもの』  養老孟司  白日社
『負けるが勝ち、勝ち、勝ち!』  萩本欽一  廣済堂新書
『くさはら』(歌集)  朋千絵  本阿弥書店
『日々是布哇』  デブラ・F・サンダース  北山耕平訳  長崎訓子絵  太田出版
 
by konohana-bunko | 2013-03-31 10:28 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 如月

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『みんなが幸せになるホ・オポノポノ』  イハレアカラ・ヒューレン著 インタビュー:櫻庭雅文 徳間書店
『でんせつ』  工藤直子:詩 あべ弘士:絵 理論社
『FISH! フィッシュ!鮮度100% ぴちぴちオフィスのつくり方』  スティーヴン・C・ランディン、ハリー・ポール&ジョン・クリステンセン 相原真理子訳 早川書房
『スピリチュアルはなぜ流行るのか』  磯村健太郎 PHP新書
『人生賛歌』  美輪明宏 齋藤孝 大和書房
『笑いのアカデミー わが愛と性』  荒木経惟vs田辺聖子 創樹社
『おちゃのじかんにきた とら』  ジュディス・カー作 晴海耕平訳 童話館出版
『祈り 創造主との交わり』  ドン・ミゲル・ルイス 大野龍一訳 コスモス・ライブラリー
『ともだちは海のにおい』  工藤直子 長新太 理論社
『養老孟司先生と猫の営業部長 うちのまる』  有限会社養老研究所 ソニー・マガジンズ
『ペットは死後も生きている スピリチュアリズムが明かす動物愛』  シルビア・バーバネル 近藤千雄訳 ハート出版
『インナーマザー あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』  斎藤学 新講社
by konohana-bunko | 2013-03-07 20:04 | 読書雑感 | Comments(2)

『草の庭』 小池光

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小池光第4歌集『草の庭』(砂子屋書房 1996)より、以下引用。



荒物屋の店さきにして釜ひとつ動かざるまま夜に入りゆく

としよりのからだは手ぶくろのにほひすとわが子がいへるときにかなしも

あぢさゐのつゆの葉かげに瓦斯ボンベこゑなく立てり家をささへて

おびただしくかたつむりゐて泣かむとすげに遠き日のあぢさゐのはな

  団地四階畳替へ
なげおろす畳はときにふはりとし道に落ちると埃もたたず

子供部屋に歌推敲す子供ゐぬ子供部屋にてわれはやすらぐ

窓枠の四角い空にひだりより三番目の雲さかんにうごく

歩み初めたるこどもにてあゆみゆき電信柱をしきりに叩く

昭和三年測量五万分の一「寒河江」かなしもよ寺の数かず

煙草屋はむかしのごとく店土間の空きのはざまに自転車しまふ

うすぐらき小路に入る春昼の鳥かご提げし宦官ひとり

春くれば軒下ひくき荒物屋天牛印軍手をぞ売る

こころよりうどんを食へばあぶらげの甘く煮たるは慈悲のごとしも

ふりかへり見ればめがねの知晴(ともはる)がひとり鉄棒にぶら下がりをり

朝礼に迷ひこみ来し小犬(しようけん)に女子整列のしばし乱るる

ふりかへり見しとき雪の中にしておみくじ箱の赤は濡れたり

マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す

きたるべき夜を前にして石段の端とこしへに運河に浸る

川しもに傾きふかく杭はたつ降りくる葦をせつにもとめて

通勤快速ラビット号に間のありて眼はあそぶ晩唐李商隠の詩

ふとん打つおともいかにも春となり街上に横たはる縄一本

行くみづのながれにくだる石階にセキレイ降りて草川といふ

棒状のものはたためる傘にしてはこびながらにわが影うごく

残年の二人小声にしてをれる競輪懺悔もわれは聞きゐる

犬猫はすがしきかなや成長ののちひとたびに親を忘るる

電信柱のかげに夜をゐる自転車の尻へあらはにかなしきごとし



「めがねの知晴」という、固有名詞。
「知晴」とだけ出されると、ひとりよがりになるかもしれないのに、「めがねの」と付くとなぜか(ああ、あの)と思わされる。
屋号のような「めがねの」が、妙な説得力を発揮する。このことばに、未知の人物に親しみを持たせる力がある。
この知晴の歌や、〈佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず〉(『日々の思ひ出』)を読むと、矢玉四郎の『はれときどきぶた』に出て来る「おできはれ子のばかたれ おできがはれてしまえ」というくだりを連想してしまう。

昨年の写真。昔ながらのロウバイの花。
by konohana-bunko | 2013-02-18 23:28 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 睦月

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『るすばんをしたオルリック』(絵本) ディビッド・マッキー ぶん・え はら しょう やく アリス館
『あなたを成功と富と健康に導くハワイの秘法』 ジョー・ヴィターリ イハレアカラ・ヒューレン 東本貢司訳 PHP研究所
『ドキドキしちゃう 岡本太郎の“書”』 構成・監修 平野暁臣 小学館クリエイティブ
『私の中の地獄』 武田泰淳 筑摩書房
『ウニヒピリ』 イハレアカラ・ヒューレン KR インタビュー:平良アイリーン サンマーク出版
『まにあうよ、いまからでも 生きることが楽になる12のステップ』 A.J.ツワルスキー チャールズ・シュルツ 笹野洋子訳 講談社

写真は1月14日、大雪の日の蓮田。 
by konohana-bunko | 2013-02-05 15:36 | 読書雑感 | Comments(0)

『でんせつ』 工藤直子・あべ弘士

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工藤直子詩画集 『でんせつ』 (あべ弘士絵 理論社)より、以下引用。

でんせつ10 すりすり

ちきゅうが「まんまる」にあきて せんべいのようにひろがった みんなは こりゃふべん こりゃいかんと おどしたりすかしたり つねったりたたいたりしたが ちきゅうは せんべいのままだ だが ねこが「ごろにゃん」と ちきゅうにおでこを すりつけてみたら ぺらんぺらんのちきゅうは くすぐったくて うひょひょひょひょと まんまるにもどった ちきゅうが いまもまるいままなのは ねこが ときどき「ごろにゃん」をするからである

写真は長谷寺近くにて。
by konohana-bunko | 2013-02-03 14:45 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 師走

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『高級霊は上機嫌』  五井昌久  白光出版
『母と子の心霊教室 不思議な心の世界』  チャールズ・パーマー著 近藤千雄訳 潮文社
「KAWADE夢ムック 武田百合子 天衣無縫の文章家」  河出書房新社
『古代霊は語る シルバー・バーチの霊訓より』  近藤千雄訳編 潮文社
『てんぷら ぴりぴり』(詩集)  まど・みちお 大日本図書
『この世で一番の奇跡』  オグ・マンディーノ著 菅靖彦訳 PHP研究所
『新版 雁の寺(全)』  水上勉 若州赤土舎

絵本は以下の通り。

『ブリキの音符』  片山令子文 ささめやゆき絵 アートン
『ねずみのとうさんアナトール』  イブ・タイタス文 ポール・ガルドン絵 晴海耕平訳 童話館出版
『きんのたまごのほん』  マーガレット・ワイズ・ブラウンさく レナード・ワイスガードえ わたなべしげおやく 童話館出版
『びゅんびゅんごまがまわったら』  宮川ひろ作 林明子絵 童心社
『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』  バージニア・リー・バートン ぶん・え いしいももこやく 福音館書店
『ちびくろ・さんぼ』  ヘレン・バンナーマン文 フランク・ドビアス絵 光吉夏弥訳 瑞雲舎
『くまさん くまさん なに みてるの?』  エリック=カールえ ビル=マーチンぶん 偕成社
『金曜日の砂糖ちゃん』  酒井駒子 偕成社



『雁の寺』は著者署名入りだった。
登場人物、どの人どの人も、みんな業にしばられて、せつない話だった。お寺とお坊さんの話なのに、誰ひとり仏教で救われていない!
終盤、主人公(少年)の父親が、家族を顧みないことを、同郷の仕事仲間に懇々と説教される場面が、殊の外ひりひりと沁みた。
by konohana-bunko | 2013-01-10 18:48 | 読書雑感 | Comments(0)

『本は読めないものだから心配するな』 管啓次郎

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管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(2009年/左右社)を読んだ。エッセイのような日記のような、筋のない小説のような、散文詩のような……こういう思索の文章をたどるのは、楽しい。砂浜の上にいきいきと弾むけものや鳥の足跡を追いかけるみたいに楽しい。

以下引用。

《きみもすでにそこに属しているに違いない書店の共和派は、たったひとりの日々の反乱、孤独な永久革命を、無言のうちに誓っているのだ。ただ本屋を訪ねつづけることが、彼/彼女の唯一の方法論であり、偶然の出会いが、彼/女のための唯一の報償であり、それによってもたらされるわくわくする書く生還と知識の小さな連鎖的爆発が、彼/女の原動力だ。》
(p22 「書店の「共和国」は、ドルを参照枠とするお金の「共和国」に、対抗する」) 

《詩はいつもそこにある。詩を読む習慣のある人は少ない。もったいないと思う。読書のための時間が限られていればいるほど、迷う必要はない、きみは詩を読めばいい。詩集は余白が大きくて目が疲れないし、詩そのものは大体どれも短い。それで短時間に、くりかえし読める。読めば心に残る。驚きがあり、発見がある。覚えてしまった言葉は、本そのものが手許にないときでさえ、楽しませてくれる。考えさせてくれる。その場ではあまり意味がわからなくても、よみがえってくるとき「ああ、そういうことなんだ」と納得したり感心したりすることがよくある。そしてこのプロセスが、われわれの心の風景を変えてゆく。心の地形も気象も変えてゆく。》
(p44-45 「迷う必要はない、きみは詩を読めばいい」より)

《橋はそれを渡る人の数だけの別の橋。本は読む人の数だけの別の本、映画は見る人の数だけの別の映画、そして人はその人に出会う人の数だけの別の人だ。このことにぼくはいつもとまどってきた。われわれはおなじ本の話をしているのか、おなじ映画の話をしているのか、おなじ人について話をしているのか?》
(p156 「本は読む人の数だけの別の本」より)

《去年(二〇〇七年)の夏、和歌山県新宮で、中上健次のお墓参りにむかう途中の車の中で、画家の岡崎乾二郎さんが話していたことが印象に残った。彼の言葉をそのまま再現することはできないので、概要だけ。映画というけど映画とは覚えているかぎりのことが映画なんだ。つまりビデオで何度もくりかえし立ち止まりながら、細かく精密に見てゆくようなものではない。上映時間の流れの中で見て、見終わって記憶に残っているものを言葉にして語る。その「語り」が映画。淀川長治さん。あの人の「話」。あれが映画です。》
(p159 「忘れれば忘れるほど、見直すたび読み直すたびに新鮮なんだから、それでいい」より)

《ぼくは五十歳になった。果たせなかったことの重みを足首に巻きつけてでもいるかのように線路沿いの道を毎日とぼとぼと歩いていた。》
(p220 「できれば意識せずにすませたかった何かを体現する形象」より)

次はジェイン・ブロックスというエッセイストが書いた”Bread”というエッセイの話。彼女はシリア系の祖父母をもつ、マサチューセッツの農家の娘だとのこと。

《やがて一九六〇年代、パン屋の燃料はガスや電気になり、ドウをこねるのも機械になり、移民の子供たちは言語を英語に切り替え、それぞれのエスニック・グループのパンはアイリッシュ・ソーダとかジューイッシュ・ライといった形容詞をつけて呼ばれるようになる。ところがその中に、シリア系の彼女たちがけっして別の名前で呼ぶことあない、つまり翻訳されない、二種類のパンがあります。その名前はシムシムとザータール。》(中略)

《シムシムとはセサミ(胡麻)を意味し、これはすぐに大好きになる甘いパンのこと。胡麻がふりかけてあり、薔薇水で味と香りをつけた砂糖のシロップに浸してある。おだやかで心を落ち着かせてくれるその香りは、口をかぐわしく甘くさせ、両手と唇をべたべたと汚す。シロップがお皿に溜まる。
ザータールのほうにはハゼノキの実が載っている。その乾燥した赤い実を細かく砕き、オリーヴ油、タイム、オレガノとまぜてある。パン屋さんがそれを包んだ白い紙には油染みができて、パンの上のスパイス類と乾燥したハーブは焦げて黒くなっている。良い土のように黒く、土の味がする。ハゼノキ、タイム、そしてオレガノ――他の料理だったらすこしずつしか使わないものが、ザータールにはふんだんに使われる。》(中略)

《シムシムとザータールはいつもおかあさんがパン屋から戻るとすぐに食べるのだった。母はそれをどちらも薄く切ってくれて、私たちは台所に立ったまま、カウンターにもたれかかって、まずシムシムを、ついでザータールを食べ、ぴりっと舌を刺すザータールを、ついで舌をなだめてくれるシムシムを食べ、ひとつの味を味わいながら心はもう次の味を考えていて、切ったパンはどんどんなくなっていった。私は、最後の一切れをどちらで終えようかと、いつもいつも迷うのだった。一方はほとんど甘すぎるくらい、もう一方はあまりに刺激が強すぎて、そしてどちらも翻訳することはできない。》(p246-247「細部にこそ、異質な人たちの心の、文章による以外接近しようのない心の領域が、はっきりと表れる」より)

ひとつひとつの章のタイトルが、もう、それだけで胸一杯になるくらいすてきだった。
by konohana-bunko | 2012-12-27 20:24 | 読書雑感 | Comments(2)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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