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最後のページでびっくり

何人かの方に勧められて気になっていた『現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』、書店に注文していたものがようやく入荷する。
モノクロの写真がたくさん載っている。近畿大学で教鞭をとっておられた時期の写真も。わたしはこの時期の塚本邦雄の写真が好きだ。年譜を見ると1989年4月から1999年3月まで近大におられたとのこと。わたしは文芸学部ができる前に卒業したし、短歌の実作を始めたのは2000年だから、今生では、ついにご縁がなかった。
ぱらぱら眺めるつもりが、つい読み耽ってしまう。再録の記事がいくつもあり、読んだ覚えのあるものもあるが、こうして本にまとまっていると読みやすい。黒瀬珂瀾さんの文章に、(わたしは間に合いませんでしたー)と返事をする。聞こえるわけはないが。
見出しの飾り枠やレイアウトの雰囲気が『玲瓏』に似ている。もう少し紙がクリーム色だったらそのまま『別冊玲瓏』だナと思う。
全体に目を通した後、最後のページに『ハムレット』贈呈応募ハガキがついていることに気付く。ははあ、50円切手を貼って出せばよいのね。とのんびり眺めていたら、「申し込み締切は9月末日まで」との文字が。げっ。早よ出さな間に合わへんやないの。
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by konohana-bunko | 2005-09-29 22:20 | 日乗 | Comments(2)

『レポートの組み立て方』 木下是雄

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学生だった時から今に至るまで、「論文の書き方」系の本というものを、最後まで読み通したことがなかった。この一事をもってしても、いかに自分が学ばない学生だったかということがよくわかる。本を手に取ったことはある。図書館にもあったし書店でも見た。だが結局それらをきちんと読んで、書いてあることを実践してみることはなかった。なぜか。教えてもらうのが当たり前、習うてへんことはわからへん、そんな、今も昔も必ずいるこども根性(←造語)の学生だったからである。講義は休まず課題も忘れず、出席カードもきちんと書いたが、「自ら学ぶ」という姿勢になったことはついになかった。やっていた当時は自分は真面目にやっていると思い込んでいたが、今振り返ると肝心なことは何もわかっていなかったことに気付く。

さてこの『レポートの組み立て方』、売ろう(爆)と思って入手したのだが、あまりに内容がわかりやすく、無駄のないうつくしい科学系日本語文(←これも造語)にほれぼれしてしまったので、当分手許に置いておくことにした。学生の頃この本に出会っていたら、もうちっとこましなレポートが書けたかなァ。いやでも結局、面倒臭がって読まへんかったやろね。

以下引用。

◆事実の記述と意見とのちがいを詳述してきたが,事実と意見とを異質のものとして感じ分ける感覚をこどもの時から心の奥底に培っておくことが何より大切である.この感覚が抜けている人は,科学,あるいはひろく言って学問の道に進むことはむずかしい.また,この感覚のにぶい人はたやすくデマにまどわされる.(p29)

◆レポートでは心情的な要素は排除すべきなので,心情のつたえ方には深く立ち入らないが,私の考えでは,文学作品でも,読み手の心に強く迫るのはいわゆる心情的な表現ではなくて,精選された事実の叙述である.
 読む人に訴えるのに心情的,主観的なことばが無益だとは言わない.しかし,事実だけに語らせるのが最高の文章作法であろう.「事実に語らせる」には,無数の関連事実のなかから表現の核となるべき事実をえらびだして,するどい照明を当てなければならない.そういう事実を発掘する眼力を養うことが,文章修行の真髄であろう. 
by konohana-bunko | 2005-09-27 18:18 | 読書雑感 | Comments(2)

大きさは関係ない

22日(木)、大阪市美術館にミラノ展を見に行く。ここの美術館は一昨年の「応挙」、今年春の「唐」に続いて3回目。見て回るが、どうもあまりわくわくしない。人が多いから?それとも聖書やイタリアの歴史についての知識がないから?そればかりでもないようだ。(何でこう、気分が盛り上がれへんのかなあ、応挙や田中一村の方が興奮したよなあ・・・)と無意識のうちに考えていて、気付く。どうも今、自分のベクトルは東洋趣味の方を向いているらしい。しかしそれに今頃気付くとは…。

だが、本当にいいものは、つまらぬ好悪などを軽々と乗り越える。今回の特別展のポスターに使われていたダ=ヴィンチの「レダの頭部」、実物はとても小さな作品だったが、これと出会えただけでわざわざ来た甲斐があった、と思えた。セガンティーニの馬の絵と牛の絵も、地に足の着いた感じがしてよかった。

写真は数日前の西の空。左下にあるフタコブラクダのような山が二上山。
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by konohana-bunko | 2005-09-25 20:32 | 日乗 | Comments(0)

ツマグロヒョウモン

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秋の彼岸ということで職場の花壇も模様替え。写真を撮っているところへうまいことツマグロヒョウモンが来てくれた!チョウの写真が撮れるなんて実にいい気分だ。
庭のブッドレア(フジフサウツギ)の花にもいろんな虫が来る。昼間はキアゲハ、アオスジアゲハ。夕方はイチモンジセセリ、スカシバ。時にハナムグリ。でも花が高いところ(地上2mくらい)に咲くので、なかなかうまく写真は撮れない。
ツマグロヒョウモンの食草はスミレの仲間だそうだ。ガーデニングでパンジーやビオラがたくさん使われるためか、秋から春にかけてよく見かける。わたしは長い間、写真に写っている黒白の模様がある方が♂だと思い込んでいたのだが、実はこちらが♀だったことが判明。
(゚Д゚)ガーン。妻の方が黒かったのね…(褄が黒いんだョ!)
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by konohana-bunko | 2005-09-22 10:00 | 日乗 | Comments(0)

図書館

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19日(月)、必要に迫られて地元の市立図書館へ。半年ぶりくらいか。建物もきれい、職員の方の応対もよい、返却は駅前のポストでOK、といいことづくめの図書館なのだが、自分が読みたい分野(短歌)の蔵書がやや貧弱なことと、自転車で坂を上って下って20分というのがネックになってなかなか足が向かない。
図書館に行く時は、古い町並の路地を選んで走る。(写真参照。)たばこ屋、呉服屋、洋品店、茶舗、耳鼻科、質屋、下駄屋、瀬戸物屋、床屋、酒屋、駄菓子屋、お寺、などなど。奈良町のような観光地でもないし、失礼ながらさっぱり売れている様子もないのだが、自転車でゆるゆる眺める分には退屈しない。藤原京以来の歴史とからめて、町並みマップを作ってまちおこしなんかしないのかしら。目玉がないからダメかしら。そう言えばこの通りには本屋も古本屋も見当たらないね。
図書館では、ふと目に付いた『クレーン男』(ライナー・チムニク/パロル舎)を借りる。岩波書店版の『森鴎外全集』を借りたかったのだが、岩波版は所蔵していなかった。ないもんは、しゃあないね。11月に県立図書館がオープンするのを待つか。
by konohana-bunko | 2005-09-20 20:18 | 日乗 | Comments(0)

本な一日

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ようやく秋らしくさわやかになってきたというのに何処にも出掛けない3連休の中日。朝から少しばかり出品作業。出品用の斉藤学の本をぱらぱらしていて、鉛筆の書き込みがあることに気付き、消しゴムを掛け始める。この書き込みがまた多い多い。結局、最初から最後まで読んだのと同じことになってしまう。

2000年頃からの数年、斉藤学(さいとうさとる)や西尾和美を集中して読んだ時期があったので、これらの本にはなつかしさを覚える。確かに、斉藤学の本を読むことで、随分救われた部分があったのだ。
ただ、あれから時間が経ち、今の状況で再読すると、物足りなく思う点がないではない。自分の抱えるさまざまな問題が家族の人間関係に起因するものだとわかったとする。そして、悪しき嗜癖を断ってゆく取り組みをする。でもその先はどうなのだ?家族の病を自分の代で終わらせるだけでいいのか?自分がよりよく生きるためには何をすればいいのか?
まあ、本に向ってそんな問いかけをすること自体が間違ってるか。一生かけて怠けたり試行錯誤したりしながら、あくまでも自分で答えを求めていかなしゃあないんやろね。

夕方、こども用のマンガの棚の整理をする。先程、出品中の本にどうしてもコピーを残したい部分があることに気付き、自転車でコンビニまで行く。涼しい。夜空に十五夜の月。
そんなこんなで本ばかりの一日。

以下引用。

◆人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけがない。20世紀の後半、私たちはいつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認しようとしていた。そして、目前の仕事や名誉やセックスや金儲けを追求してきた。
◆人は少々ブルーな気分で、適度な寂しさを抱えながら生きるのがいい。そんな日々の中でこそ、もう一人の人との出会いが何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡を感じることができるようになる。
(『「家族」という名の孤独』斉藤学 講談社)
by konohana-bunko | 2005-09-18 21:24 | 日乗 | Comments(4)

『こころの旅』 神谷美恵子

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こころの旅 神谷美恵子 日本評論社(1974)

神谷美恵子については、名前だけは知っていたものの読んだことがなかった。今回この本で初めて出会った。
誕生期から死にいたるまでの人のこころの変遷をたどる、という1冊。テーマが大きいためにかなり枝葉を落とした概説となっている。先行者の引用が多いのでこの方面の本を読んでいない自分にはわかったようなわからないような、あるいは退屈なような気もしないでもなかった。ただどんな文章(新聞記事であろうが学術論文であろうが)を読む時も書き手のことばづかいが気になる読み手としては、神谷美恵子の語り口に感銘を受けた。湧き水のような文体だ。以下引用。

◆新生児ははじめ泣くことしかしない。これは泣く原因が多いというよりは苦しみの表現機構が発動されやすい状態で生まれてくるからだろうという意味のことをワロンはいう。生まれたばかりの子が自発的に示す感情が深いみじめさと苦痛であるという事実は、すべての人間に内在する「宇宙的メランコリー」または「世界苦」のあらわれである、とL・ウルフは自叙伝で述べている。少なくともほほえむこと、笑うことはあとから発達してくるという意味で、より高級な「業績」なのだろう。(p44)

◆どのような仕事、学問、業績を生きがいとしてきたにせよ、すべては時とともにその様相と意義が変わって行くものだ。自分のあとからくる世代によってすべてがひきつがれ、乗り越えられ、変貌させられて行く。その変貌の方向も必ずしも「進歩」とは決まっていない。分散か統合か、改善か変革か廃絶か、歴史の動向と人類の未来はだれが予見できるであろう。自分の過去の歩みの意味も自分はもとより、他人にもどうしてはっきりとわかることがあろう。その時その時を精一杯に生きてきたなら、自分の一生の意味の判断は人間よりも大きなものの手に委ねよう。こういうひろやかな気持になれれば自分の過去を意味づけようとして、やきもきすることも必要でなくなる。いたずらに過去をふりかえるよりは、現在まわりにいる若い人たちの人生に対して、エリクソンのいうような「執着のない関心」を持つこともできよう。彼らの自主性をなるべく尊重し、自分は自分で、生命のあるかぎり、自分にできること、なすべきことを新しい生きかたの中でやって行こう、という境地になるだろう。(p170)

◆地球上の生と死は互いに支え合う関係にある。生命の進化も、多くの生命の死の上に成り立っていることは明白である。おそらく生と死とは、さらに高い次元の世界で調和しているにちがいない。(p218-219)
by konohana-bunko | 2005-09-17 10:54 | 読書雑感 | Comments(0)

バスの中で

70過ぎのお婆ちゃんが二人、大きい声でしゃべっている。
「麻薬てあれ何やてナ、芥子から作るねんてナァ」
「へ、芥子てあの、あんぱんの上にまぶってるアレ?…ほんなわたい、しょっちゅう食べてますで?!」
バスの中は人目があるので、笑いをこらえて聞いている。笑いって、こらえると増幅する。
また別の日、お肌に水をかけたら蓮の葉みたいにコロコロっと弾きそうな、二十歳前後の娘さん三人の会話。
「花火見てたら、『たーまやー』て言うやん?」
「あ、言う言う、『たーまやー』『かーじやー』て」
「『かじや』??『鍵屋』やで?」
「えーー?うそーーー!(赤面)」
花火があまりに見事で火事みたいだから『火事や』だと思っていたとのこと。
by konohana-bunko | 2005-09-13 10:01 | 日乗 | Comments(2)

夜道

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先日温泉に行った時、こどもの頃住んでいた家に風呂がなかったことを思い出した。
二日に一度、夜遅くに、歩いて五分ほどの銭湯に通っていた。
母と二人でのことが多かったが、時に父も加わって、三人連れ立って出掛けることがあった。
三人で銭湯に行った日は、帰りが楽しみだった。銭湯は坂の上にある。帰り道は公設市場の裏を回って下る急な坂である。そこを通る時は、父と母に手をつないでもらう。
「いち、にの、さんしてェ」
とわたしが言う。すると父と母は手に力を入れてわたしを持ち上げる。二歩か、三歩くらいの間、わたしは足を前に上げて、ぶらんとぶらさがって宙を移動する。下り坂だから、地面がどんどん離れてゆくように見える。夜空に向かって浮いてゆくような気持ち。
父と母が腕の力を弛める。わたしの足はぱたりと着地する。もう一回。いち、にの、さん。また手にぐんと力が入って、わたしはぶらんと浮き上がる。そして、ぱたり。もう一回。いち、にの、さん。いち、にィの、さん。

街灯のない、暗い道だった。公設市場の裏側で、道の傍に木のトロ箱が積み上げられていた。冬には、街路樹の梢の上に凍えるようなオリオンが輝いているのが見えた。

あの頃のわたしに、父と母の手をしっかりとつなぎ合わせる力があったのだ、と、今、気付く。
by konohana-bunko | 2005-09-12 17:15 | 空中底辺 | Comments(2)

木箱を眺める

11日(日)は所属結社の歌会へ。場所はいつもと同じ京橋駅。ちょっと遅れ気味に会場に着いたら、Oさんのお隣が空いていて座ることができた。Oさんにお目にかかるは久し振りだったので、うれしかった。
前半は通常の歌会、後半は最新号の歌誌の作品の合評。10首なり20首なりの掲載作品の中から自選1首の意見を伺うというスタイル。この合評が、きつーい。(泣)でも効くー。(笑)今回は1首にしぼって、というやり方だったために、いつもより強く「1首で立つ歌の難しさ」を痛感した。歌誌に載せた歌の感想というものは滅多に伺えるものではないので、これはとても貴重な学びの機会。
休憩の時に、数人の方とちょこちょこっとお話をする。歌集をいただいたS宗匠に御礼を申し上げたり、上梓に関するエピソードを伺ったりできた。これもうれしいこと。
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行き帰りに通るツインビルの1階ホールで、古本市を発見。ををを!と強い引力を感じるが、今日は遠目で眺めるだけにとどめた。うーん、木箱いいよなあ。
by konohana-bunko | 2005-09-11 20:29 | 日乗 | Comments(2)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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