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2005年の読書(下半期)

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『ペルシャの幻術師』  司馬遼太郎
『百珠百華 葛原妙子の宇宙』  塚本邦雄
『胎児の世界 人類の生命記憶』  三木成夫
『ぶらんこ乗り』  いしいしんじ
『おもちゃ』  新藤兼人
『白き瓶 小説 長塚節』  藤沢周平
『死の世界・死後の世界』  ひろさちや
『捜神』  前川佐美雄
『こころの旅』  神谷美恵子
『「家族」という名の孤独』  斎藤学
『レポートの組み立て方』  木下是雄
『塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』  現代詩手帖特集版
『采女』  門脇禎二
『クレーン男』  ライナー・チムニク
『オトコとオンナの深い穴』  大田垣晴子
『パパラギ』  岡崎照男訳
『塩壺の匙』  車谷長吉
『QC 心のクワイエットコーナーを探そう』  ナンシー・オハラ
『三好達治詩集』  村野四郎編
『木強』  萩岡良博
『Lapita 11月号』
『創価学会』  島田裕巳
『自分に気付き、幸せをつかむ スピリチュアル・トレーニング』  池田辰雄・小林信也
『月刊SAVVY別冊 奈良へようこそ』
『添寝の悪夢、午睡の夢』  金井美恵子
『生命の暗号 Something great』  村上和雄
『カラー版 バナナとエビと私たち』  出雲公三
『くちたんばのんのんき』  田島征彦
『最後の物たちの国で』  ポール・オースター
『タイコたたきの夢』  ライナー・チムニク
『ラインダンス』  井上陽水
『夜と霧』  V.E.フランクル
『随筆 本が崩れる』  草森紳一
『自分の素晴らしさに気付いていますか』  マドモアゼル愛
『ずぶぬれて犬ころ』  住宅顕信
『短歌学入門』  辰巳正明
『それでも人生にイエスと言う』  V.E.フランクル
『当世・商売往来』  別役実
『生きて愛するために』  辻邦生
『経済ってそういうことだったのか会議』  佐藤雅彦 竹中平蔵

上半期で44冊、下半期で40冊。あー1年で100冊には届きませんでした。2006年はどんな本と出会えるのか、今から楽しみです。

写真は悠南書房店頭の手作り均一台。 
by konohana-bunko | 2005-12-31 22:18 | 読書雑感 | Comments(0)

押入れ猫

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押入れ猫」はわが家の冬の季語。
by konohana-bunko | 2005-12-30 19:50 | 猫是好日 | Comments(0)

年の瀬

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27日から職場の冬休み。よって在宅のここ数日は、「郵便局→スーパーマーケット→自宅」の黄金の三角形をぐるぐる回っている。自宅近くの郵便局は年末年始も郵便物の取り扱いをやるとのことで、まことにこころ強い。
明日は年賀状を出す。間に合う…のか?
by konohana-bunko | 2005-12-29 22:57 | 日乗 | Comments(2)

『当世・商売往来』 別役実

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いろんな商売(職業)のありようをひねりの効いた筆で描いてみました、という本。30種類の商売にまつわる30の短い話だからすぐ読めるようでなかなか前に進めなかった。この別役実の文章の癖というかものの見方(うがち方?)が今のわたしの気分に合わないのかもしれない。
30あるうち素直に楽しめたのは「こえかい」「喫茶店」「銭湯」の3編。

以下、「喫茶店」の章より引用。

百万単位の人類と、千単位の人間は、まったく別種の存在である。千単位の人間を千単位集合させても、百万単位の人類にはならない。それはあくまでも、千単位の人間を千単位集合させたものにほかならない。したがって、人間というものを千単位で考える考え方を、どんなに拡大しても、百万単位の人類について考えることはできない。逆に、百万単位の人類についての考え方を、どんなにきめ細かに細分化したとしても、千単位の人間について考えることはできない。百万単位の人類と、千単位の人間は、それらをそれぞれそのように確かめるための文化が違うのである。
(中略)
それでは、どうすればいいか。これまで都市における喫茶店が、わが国の文化に果してきた役割は、決して小さくはない。当然ながらそれは、千単位の人間に関わる文化であり、百万単位の人類に関わる文化ではなかったが、その種の文化を固守している人間も、もしくはその種の文化しか文化でないと考えている人間も、まだいくらかは生き残っているのである。そうした人間が、せめてほんのひとときでも、百万単位の人類の運命について考えないですむ場所として、一軒や二軒の喫茶店を残しておいてもいいではないか。もちろん、高騰しつつある地価に見合うべく、コーヒーの値段を一万円とか二万円にしてもいいと言うのではない。時間制限があって、「五分たったら出ていけ」というのも困る。「紙コップに入れたコーヒーを、立って飲め」というのもいけない。

引用終わり。

喫茶店が千単位の人間の文化とすれば、現代短歌の歌集は果たして何人単位の文化なのかしら。などと、つい、考えてしまった。
by konohana-bunko | 2005-12-25 22:20 | 読書雑感 | Comments(2)

クリスマスのアルバム

クリスマス・イブ。
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街では馴鹿が「フォーー!」と叫び、
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外は吹雪、
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おうちは静かなクリスマス。
by konohana-bunko | 2005-12-24 22:28 | 日乗 | Comments(2)

ここにいる人すべてが

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先日、NHKの夕方のニュースを見ていたら、夜景の映像が映った。上空から、アナウンサーが中継をやっているのだ。まずは港のあたり。赤いあやとりの筒みたいなポートタワーが見える。それからヘリがだんだん市街地の方へ寄っていく、と思ったら、ビルとビルの間に白く輝く通りが現れた。あ、ルミナリエ!
カメラがズームしてゆく。街路がだんだん大きくなって、電飾の廻廊の下を歩いている人の姿がはっきり見えてきた。造幣局の通り抜け並みに込んでいるのだと思っていたら、案外、人出が少ない。平日の戎橋くらい。寒いから、空いているのか。それとも、まだ夕方だからこれから混むのか。
光の通りは広場のような場所につながっている。広場もぐるりと電飾の壁で囲まれている。光の壁の中に、たくさんの人がいるのが見える。恋人どうし、友達のグループ、夫婦、親子連れ、大勢の人が思い思いに動いている。電飾を見上げたり、ことばを交し合ったり、カメラを構えたり。
本当は、仕事が大変だったり家族のことで悩んでいたりどこか身体の具合が悪かったり、いろいろあるはずなのに、それでも人はこうして、寒い中わざわざ出て行って光を見上げている。これも、生きているからこそできることのひとつ。そう思うと、一瞬、画面の中の雑踏がひどくあたたかいものに感じられた。

ここにいる人すべてが、しあわせであればいいのに。と、思った。

生きてこの世にある人、すべてが。
by konohana-bunko | 2005-12-23 11:28 | 日乗 | Comments(0)

武蔵野の草はみながら

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帰りの電車、車窓から写真を撮った。
はじめは雲を狙っていた。雲間から傾いた日の光が差して、ヤコブの梯子を作っているところを撮ろうと思った。窓ガラスに顔をくっつけるようにして、何枚か撮ってみた。液晶モニターで確認してみたが、目で見るほどにはっきりとは写らないようだ。電車が揺れる。下を向いてカメラをいじっていたら酔いそうになる。雲間の光はあきらめて、あまり何も狙わずにぱちゃぱちゃと何度かシャッターを押して、スイッチを切って鞄にしまった。
家に帰って、パソコンの画面で写真を確認する。メタセコイヤが写っている。この景色は、公園のそばを通過する時に見えるもの。曇り空の下の、寒々とした景色。この写真を見て、ふと(武蔵野)と思った。

紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る  古今集―伊勢物語

伊勢物語第四十一段、「緑衫の袍(ろうさうのうへのきぬ)」というのは短い話だ。二人姉妹がいて、ひとりは身分の高い男と、ひとりは身分の低い男と結婚した。身分の低い男を夫としている女きょうだいの難儀に、身分の高い方の男が助けの手を差し伸べる。そんな話。高校の古文の授業でやった時は(で、これのどこがおもろいねン?)と思ったことを覚えている。確かに「筒井筒」のようなドラマはない。でも、今読み返すと、しみじみするものを感じる。「武蔵野の心なるべし」と呼べるような、さりげなくもあたたかい思いやりというのは、する方も受ける方もむずかしいのではないか。

武蔵野ということばから、また、別の冬枯れの景色も思い出す。東京のJR中央線に乗って、国分寺まで行った時に見た風景。都心から離れるにしたがって、窓の外を小さな冬木立が何度もよぎった。武蔵野というのはこのあたりのことなんかな、それとももっと遠いところなんかな、などと考えながら窓ガラスに頭をくっつけて外を見ていたら、何だか涙が出て仕方がなかった。なぜ泣きたくなったのかは、いまだにわからない。
by konohana-bunko | 2005-12-19 21:49 | 日乗 | Comments(0)

Train Train

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写真は今朝の有明の月。
明日の朝は寒すぎて写真どころではないかも。

電車に乗ると、人の会話が耳に入る。
電車の中では本を読んだりメモを書いたりすることが多いので、静かなのにこしたことはないが、大勢人が乗っているのに話し声がまったくないとういのも、何となく不気味に思う。少し離れたところから、穏やかな人の声が、電車の音と一緒に聞こえるくらいがここちいい。携帯電話は、論外。
人の会話が全然気にならない時と、気になって仕方がない時がある。気になって仕方がない場合はあっさり作業を諦めて、話に聞き入ってしまった方が楽なことが多い。まあそれも、その会話の内容や声の質に左右されるのだが。
一昨日の朝の電車で、隣に高校生が座った。前に立っている2人と、女子3人のグループ。そのうち1人は、雪でダイヤが乱れることを見越して、いつもより家を早く出てきたのだと言う。
「今朝なー、1時間、家早く出てんやん、そしたら駅でなー、鮮魚列車見てん」
「へえー、何それ。魚の電車?水槽とかになってんのン?」
「なってへんなってへん(笑)」
2人がそんな会話を。すると残りの1人が、はっと目を見開いて、
「あ、あたし鮮魚列車は見たことないけど、何か変わった電車見たことあるー!あのなー、〈魚〉に〈羊〉に〈魚〉って書いたあってん!!」
せやからそれが鮮魚列車やと(以下略)
by konohana-bunko | 2005-12-17 23:24 | 日乗 | Comments(0)

そののちの親子

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中央の錆猫が母猫、左の茶虎がその息子。(証拠写真
立派になったもんだ。
寒いけど頑張れ。
by konohana-bunko | 2005-12-16 09:43 | 猫是好日 | Comments(1)

『それでも人生にイエスと言う』 V.E.フランクル

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『夜と霧』のつづきとして。
以下引用。

ある古い神話(*)は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなくらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。
しかしこの神話はさらに伝えています。こうした「義(ただ)しい」人たちのうちの誰かがそれとして認められ、まわりの人々、いっしょにいる人間たちにいわば「見破られる」と、そのとたんにその人は消えてしまうのです。「引退」させられるのです。その瞬間に死ななければならないのです。これはどういうことでしょうか。こう表現しても間違いではないでしょう。人々は、そういう人たちが模範となって自分を教育しかねないと気づくと、「いやな気持ちになる」のです。人間は、教師口調で叱られたくないものなのです。

 *旧約聖書と並ぶユダヤ教の聖典である『タルムード』に「日毎に神の臨在する三十六人の敬虔者」のことが語られている(Sukkah 45b)。またその後の伝説によれば、これらの敬虔者は、謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営みながら、その営みの背後に隠されている義によって、この世界の存立が支えられているという。  (p15~16)

たしかに、生物学的に見た人間の生命、肉体的な生命は、はかないものです。肉体はなにひとつのこらずなくなってしまいます。そうだというのに、どれだけたくさんのものがあとにのこされることでしょう。肉体がなくなってもなくならず、私たちが死んでもなくならないもの、私たちの死後もこの世にのこるのは、人生のなかで実現されたことです。それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです。私たちの人生は燃えつき、のこされるのは、実現されたものがもっている効力だけです。その点では、ちょうどラジウムに似ています。ご存じのように、放射性物質には寿命がありますが、ラジウムは、その生涯のうちにどんどん放射エネルギーに転換されて、二度と物質には戻りません。私たちが世界の内に「放射している」もの、私たちの存在から放射されるさまざまな「波動」、それは、私たちが死んで私たちの存在そのものがとっくになくなっていてものこるものなのです。 (p51)
by konohana-bunko | 2005-12-14 20:26 | 読書雑感 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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