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頭のいい「雨の木」(レイン・ツリー)

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20年くらい前、『「雨の木」を聴く女たち』(新潮文庫)を読んだのだがすっかり忘れていた。この間買った『現代伝奇集』の冒頭にこの話が収録されていたので、つい再読してしまった。頭のいい「雨の木」、果てしなく細分化されながら続く(今ならさしづめ「フラクタル」と呼ぶか?)階段と小部屋のイメージ。これらは「生命の樹」の喩なのだろうか。

以下引用。

――「雨の木」(レイン・ツリー)というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。

引用終わり。大江健三郎の文章は基本的に「わかりにくい」。わかりにくいにも関わらず、また、決して気持ちのよい話でもないのに、手に取ると読んでしまう。一番好きなのは『洪水はわが魂に及び』。『治療塔』もいい。

画像は「Websites as Graphshttp://www.aharef.info/static/htmlgraph/で画像化したこのはな文庫のblog。サイトのURLを打ち込むと、こんな画像(動画)になって現れる。分子の模型のようでもあり、花のようでもあり、粘菌のようでもあり。フシギだ。
by konohana-bunko | 2006-06-26 22:30 | 読書雑感 | Comments(0)

Bボタン連打

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写真、職場にて、ついにホシミスジの撮影に成功。地味だけど、ガではない。タテハチョウ科のチョウ。ま、ガもチョウも分類上では同じ鱗翅目だけどね。
わたしは今の職場に来るまで、ミスジチョウの仲間を見たことがなかった。地域によってはあまり見られない種類なのだろうか?職場周辺には、たくさんいる。ユキヤナギ(食草)の植え込みがあるからかもしれない。
ミスジチョウの仲間は、羽の色や形よりも、飛び方が面白い。
まず、たてつづけにはたたいて斜め前方に上昇する。それから、羽を開いたまま滑空する。すーっと滑空して低くなりながら、折々、はた、はた、とはばたく。そしていよいよ高度が下がるとはたたたと羽ばたいて斜め上に……といった様子を、繰り返す。こう、文章で書くとわかりにくいナ。一番似ていると思うのは、初代ファミコンの「スーパーマリオ」が水中で泳ぐ時の動き。Bボタンを連打すると、マリオが「ぴょこぴょこぴょこ」と斜め上に動き、ボタンを押さないでいるとゆっくりと沈む、途中でBを押すと「ぴょこん」と一掻きだけして、また沈む……という、あれ。あんな飛び方。説明に、なったかな。
by konohana-bunko | 2006-06-24 22:23 | 日乗 | Comments(2)

あじのかず外伝

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神戸屋はどこまで行くのか。

過去記事参照→あじのかず
by konohana-bunko | 2006-06-22 21:29 | 日乗 | Comments(0)

橘曙覧メモ(7)

『曙覧の研究』 折口信夫 高遠書房 (1934)より

以下引用。

人の、刀くれけるとき

抜くからに 身をさむくする秋の霜 こころにしみて うれしかりけり

【迢】今度も同人の方々のを読むにつけて、も一度この歌を見て驚いたのは、「心にしみてうれしかりけり」の句のあつたことだ。故人赤彦の

隣室に書よむ子らの声きけば心にしみて生きたかりけり

に感動したことを更に思ひ出す。曙覧に既にそれがあつて、赤彦を刺戟して居たのである。(p15-19)

引用終わり。【迢】は釈迢空=折口信夫のこと。『曙覧の研究』は、座談会形式で行った曙覧の歌の批評がまとめられている。折口信夫はこの本の中で、曙覧について「形よりも心、歌柄より人柄」(p295)とも発言している。
by konohana-bunko | 2006-06-21 13:10 | 空中底辺 | Comments(0)

『米朝ばなし 上方落語地図』 桂米朝

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落語はラジオで聴くものだった。ラジオは箪笥の上に乗っていた。夜、電気を消した部屋で、布団の上に寝転んで、薄暗い天井を眺めながら聴く。隣の部屋には蛍光灯が点いていて、母が洗濯物を畳んだりアイロンをかけたりしていた。母はいつも遅くまで起きていた。父はいつも遅くにしか帰ってこなかった。

半ばとろんと眠くなったところへ、こんな話を聞くわけですよ。以下引用。

「近ごろ新身(あらみ)の刀を手に入れた」侍が、朋輩に自慢をする。「なるほど、これは無銘ながら逸品と心得ますが、切れ味は?」「さ、犬猫を切るわけにも参らず、まだ試しておらん」「よきことをお知らせ申そうか。じつはそれがしも先日、新身の一刀を手に入れた。夜前、夜更けに日本橋を通りかかると、橋のたもとに乞食(こつじき)のたぐいが筵をかぶって旨寝(うまい、熟睡)をしておる。これ究竟(くっきょう、最も好都合)の試しものと心得て“こりゃ、寝耳ながらよくうけたまわれ。その方、生きて甲斐ある命ならばかかる殺生は致さぬが、生きて甲斐なき生涯、身どもの刀にかかって相果てい。亡きあとの回向は、手厚く致してとらす”と、心中に念仏を唱えて、抜き打ちに斬り捨てて帰りました」
「なるほど、乞食のたぐいとあらば、詮議もさほど厳しゅうはござるまい。昨夜、人が殺されたのを知らぬ者が、また寝ておるかもしれません。しからば出掛けてみましょう」
――夜中、その侍がやってくると、また橋のたもとに乞食が一人寝ている。
「夜前、殺されたというのに、また寝ているとは、よくよく命冥加のないヤツじゃ。亡きあとの回向は厚くしてとらすぞ。観念せい!ナムアミダブツ!」
ザーッと斬りつけると、パーッと筵をはねのけた乞食が、
「どいつや、毎晩どつきに来るのは!」

引用終わり。
このはなみ★録のこのはなさんが、子育て幽霊の話について触れておられた。上方落語にも高台寺を舞台にした「幽霊飴」という噺がある、と『米朝ばなし』に載っている。例の、女の人の幽霊が、赤子を育てようと飴屋に飴を買いに来る…というあれ。「番町皿屋敷」はよう覚えてるけど、「幽霊飴」は記憶にないなあ。再び引用。

掘ってみると、お腹に子供を宿したまま死んだ女の人の墓です。中で子供が生まれ、母親の一念でアメを買うてきて、それで子供を育てていた。子供が生きているので、アメ屋の主人が引き取り、養育します。のちにこれが高台寺の坊さんになります。
母親の一念で、一文銭を持ってアメを買うてきて、子供を育てていた。それもそのはず、場所が「コオダイジ(子を大事=高台寺)」

引用終わり。写真、もちいどの商店街にて。
by konohana-bunko | 2006-06-20 22:51 | 読書雑感 | Comments(2)

『街道をゆく 7』 大和・壺坂みち ほか 司馬遼太郎

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『街道をゆく』は「台湾紀行」に続いて2冊目。Bookoffの105円コーナーに出ていた。数冊並んだ中から、(まあ、大和かなあ)と手に取った。最初に須田剋太画伯の話が出てくる。

以下引用。

須田さんは若いころから脾弱で、むりをしないという自律でもって、六十余年間いのちを保ってきた。夜は九時に寝、朝は六時前に起き、そのあと、六甲山のみえるあたりを三十分ばかり散歩する。仕事をする時間は午前中である。午後はすこし午睡をとる。夜はすこし読書をし、たまに詩を書き、仕事はしない。この規律をくずせば自分のいのちは溶けてしまうかもしれないということで、大切にいたわってきた。

引用終わり。須田さんてこういう人だったんだ、と、驚く。あの絵や書の、拳骨のようなタッチからはちょっと、想像がつかなかった。

小学6年の時に『燃えよ剣』を読んで以来、司馬遼太郎は好きとか何とかを通り越して、自分の中に溶け込んでけじめがつかなくなってしまっている。いや、溶け込んで、というのは傲慢な勘違いで、むしろ自分が取り込まれてしまっていると言った方が正確かもしれない。

司馬遼太郎の文章は、ことばえらびが硬質で、文は乾いた小枝みたいにぽきぽきと短く折れ、いかにも「漢漢(おとこおとこ)」した感じがする。ところが話の運びは案外、さめざめととりとめない。紀行文の場合、このとりとめのなさは効を奏していると思う。小説の場合だと、時にもどかしいことも、ある。

写真は元興寺講堂で出会った須田剋太の衝立。須田さんの字はとてもいい。見ていると、こころの中から、骨が洗い出されてくるような気がする。
by konohana-bunko | 2006-06-17 22:33 | 読書雑感 | Comments(0)

おおきいのやらながいのやら

職場の廊下にはいろんな生き物がいる。渡り廊下にはツバメが巣を作る。一昨年はコシアカツバメの巣も見た。野良猫もいる。カナヘビもたまに。アホロートル(ウーパールーパー)もいる。これは、生息しているのではなくて、誰かが飼育しているもの。
数が多いのは、やはり虫。快適な虫ばかりではないが、ミスジチョウの仲間、カマキリ、コガネムシの仲間、コクワガタ、ゴマダラカミキリなどもいる。ガも多い。捕まえる気にはならないけれど、中には「お」と思うくらいシックな柄のものもいる。
この間、虫の標本を見せてもらう機会があった。写真、写真!
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左はその辺におるいわゆる「ブンブン」、右はゴライアスオオツノハナムグリ。ハナムグリですよ。どんだけデカい花に潜っとんねん!とツッコミを入れたい。
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そしてこちらがテナガカミキリ。ルリホシカミキリとかシロスジカミキリとか天牛書店とか、カミキリの類はみんな好きなのだが、浅学にしてこんなカミキリがおるとは知らなんだ。動いているところも、見てみたい。
by konohana-bunko | 2006-06-16 21:26 | 日乗 | Comments(4)

『風さわぐ かなしむ言葉』 岡部伊都子

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岡部伊都子を最初に読んだのは、中学生の頃、新聞のエッセイでだったと思う。ことばがやわらかく、たおやかなのに対して、自身に対する姿勢が大層きびしいことが、印象に残った。その印象は、今も、どの作品を読んでも、変わらない。

以下引用。

人からうまく打ち明け話をひきだして、好んで聞く趣味の方があるが、私はとてもそんな親切をもてない。どんなことでも、こちらから聞き出そうとは思わない。どんなに仲がよくっても、言わずにすむことならば言わないでもらいたい。「できるだけなにも打ち明けないで」その上でどうしてもきかねばならぬときはもとより、いっしょうけんめいにきく。それは相手が不幸な思いをしているときだ。打ち明けずにすむ幸福を祝福してやまぬだけに、なにかきいてといわれたときには、激しく心がさわぐ。信頼されて打ち明けられるにもせよ、他者の不幸な秘密を知らねばならぬのは、”血で買った”貴重な静寂を失うことだ。そしていつかは「真実を知られた人間だ」という事実のために、打ち明けた人からかえってうとまれる宿命をも覚悟せねばならぬ。内部にふきあれる風の風圧でバラバラに崩壊する自分を感じて呆然とするのである。(p158 風さわぐ より)

写真は近鉄奈良駅、率川(いさがわ)神社「ゆりまつり」の看板。レトロだ。
by konohana-bunko | 2006-06-13 23:30 | 読書雑感 | Comments(0)

お墓参りと歌会

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11日(日)、玲瓏の歌会。近鉄特急で京都まで、京都から206系統の市バスに乗って四条大宮、会場のホテルへ。京都で移動する時はバスに乗って町並みを眺めるのが楽しみ。但、よく揺れるのでしっかりつかまっておくこと。
一旦会場に集まってから西陣の妙蓮寺というお寺に、塚本邦雄先生のお墓参りに行く。
ここのお寺は、夏に来ると芙蓉がきれいだ、という話。
塚本先生はここのお寺に来た帰りには必ず鶴屋吉信の本店に寄って善哉を食べて帰った、とか。またその善哉がとてつもなく甘い、とか。そんな話も。
歌会では30首の意見交換。拙歌に地獄と極楽のような批評をいただく。叩頭三拝。その後歌誌掲載の作品をいくつかピックアップして批評。

歌会に行くたび、自分の歌に何かしら問題を発見する。どう解決したらいいかは、わからない。後になって、乗り越えるなり迂回するなりして何とかなった後にはじめて(ああ、そういうことやったんか)と思うのかもしれない。で、その頃にはまた、次の問題が出てくるのだろう。ま、根気よう、続けるだけやネ。

帰り、バスの窓から東寺の塔の前を横切る新幹線を見る。鉄橋の下を流れる宇治川を見る。今日はカメラを持って出なかった。写真は昨年夫がドイツで撮影した石のライオン。
by konohana-bunko | 2006-06-11 21:27 | 日乗 | Comments(2)

わたしのすきなうた

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生きるに値する愛/死ぬに値する愛

真玉ゆらぎの             尾崎まゆみ

潮の香の青くこぼれて鈴なりのいのちの粒がびつしりとある

人魚ゆらめきの尾鰭へむかふ指しろたへの踝は生(あ)るるや

月の手のさはるひかりに濡れた髪みづ弾くいちまいの結界

官能器あつく地上に人魚姫くるぶしに沁みとほる痛みは

思ふよろこびの一瞬白妙の真玉(またま)ゆらぎの風とふれあふ

愛あれば泡(あぶく)へ還るゆらめきの霊魂(プシケ)翼のあるるひかりに

かくてあのアンデルセンはかなしみの最後の真珠薄氷(うすらひ)に置く

        (北冬+ 2004年春星号 特集 2004年のラブソングより引用)

美しく、哀しく、残酷な世界を、やわらかいけれど、しぶといことばでうたう。歌はひとをうっとりさせるもの、気持ちよくさせるもの。永田先生がいつか、そう言っていた。わたしも、そう思う。
by konohana-bunko | 2006-06-09 20:51 | 空中底辺 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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