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読書の記録 葉月

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8月は少なかったデス。

『随筆集 孤宴(ひとりうたげ)』 葛原妙子 小沢書店
『お勉強』 中崎タツヤ作品集3 竹書房
『The Blue Day Book』 B.T.グリーヴ 竹書房
『われはいかなる河か 前登志夫の歌の基層』 萩岡良博 北冬舎
『就職しないで生きるには① ぼくは本屋のおやじさん』 早川義夫 晶文社
『日本と世界の猫カタログ'90』 成美堂出版編
『あしたの太鼓打ちへ』 林英哲 晶文社
「L magazine 2007.10 書店カルチャー!?」

本屋さんで、Lマガジンとクウネルを両手に持って、どちらにしようかさんざん悩んだ末、クウネルを返してLマガを買ってしまった。
by konohana-bunko | 2007-08-31 21:14 | 読書雑感 | Comments(0)

犬の話

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雷鳴の轟犬よとくもぐれ  林哲夫

午前中、雷が鳴って激しい雨が降った。この雷雨で、daily-sumusに掲出されていた俳句を思い出し、句を読んで、飼っていた犬のことを思い出した。芋蔓式。
犬はA子といった。雌で、スピッツのかかったような茶色の雑種で、とてもかわいらしい顔をしていた。元は夫の家の家付きの娘犬で、人間であれば義妹ということになる。わたしにもよくなついてくれていたが、時にわたしに対してだけ「つんッ」とした態度を見せることもあり、(さすが小姑)と思うこともなくはなかった。
このA子がある日、家から出て行ってしまった。
もともとA子は雷が大嫌いで、空がゴロゴロいいだすと、もう身も世もなく鼻を鳴らし、居ても立ってもいられない様子でおろおろする犬だった。雨嵐の夜、出掛ける用があって玄関を開けたところ、A子が外へ飛び出した。あまりに雷が怖かったために、パニックになったらしい。
夜中になっても朝になっても戻らない。家族で近所を探し歩いたのだが見当たらない。どないしたんやろ、どないしたんやろと言うている間に三日経ち一週間経ち、三ヶ月経ち、となると心配で気がかりではあるのだけれど半ばはあきらめ、淋しいような宙ぶらりんのような気持ちになっていった。
で。
某夜、その日も雨風が強かったのだけれど、出る用があって扉を開けたら、湿った真っ暗な風に乗って玄関の中に灰色の塊がびゅううと飛び込んで来た。(うわ何?)と思ったらそれは尻尾をぶんぶん振り回している犬だった。えっ。A子か?あんた帰って来たんかいな!
失踪してからちょうど九ヶ月、埃やら煤やらでどろどろになってはいたが、A子はちっとも痩せていなかった。見たことのない首輪をしていた。明らかに誰かから餌をもらっていた様子だった。
次の日洗ってやったら茶色くてふわふわのA子に戻った。A子はまたうちの玄関先の犬小屋に入って、何事もなかったかのような顔をして、わんわん吠えたり耳の後ろを掻いたりしていた。
by konohana-bunko | 2007-08-29 23:10 | 日乗 | Comments(4)

たそがれのブランコおじさん

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夏休みもそろそろ終わり。某日所用で京都へ。赤くて大きい鳥居と、ルノワールのポスターを尻目に、一音入魂のアツいイベントに。アツかったマジで……演奏もやけどまさかあんなにえらい人とは。チケット持ってても外で並ぶとは思わへんかった。
終了後、日が翳っていたので坂を歩いて下ると、高山彦九郎のところに出てきた。三条大橋。京阪三条の駅。ははあ。こんなところに出てくるんや、帰りは京阪に乗ろか、と思ったらそこに、
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ブが!
折角なので寄ってみる。ここにも、105円均一の一角に歌集の奥つ城が。『味覚歳時記 木の実・草の実編』塚本邦雄、『Linemarkers』穂村弘、と気に入ったものを拾っていって、最後に『四月の魚』正岡豊を見つけた。心臓がぐにゅっとなった。
by konohana-bunko | 2007-08-27 21:58 | 日乗 | Comments(2)

『ぼくは本屋のおやじさん』 早川義夫

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『就職しないで生きるには① ぼくは本屋のおやじさん』早川義夫(晶文社)を読む。町の商店街で新刊書店を始めた青年の話。本屋開業のノウハウといった実用的な話ではなくて、本屋をやっている日常に感じたことを書いている。本が出来てお客さんの手に渡るまでの間に存在するさまざまな理不尽とか、店に来る人たちの人間模様とか、そこから話は広がって世の中の矛盾ややりきれなさ、そんな話。ほがらかな文章ではないので、読んでいる間ずっと辛気臭かったけれど、読み終わった後にはいやな気持ちは残らなかった。この人は本当は人間が好きなのだ。人間が好きで、みんながおだやかに生きていけたらいいのにと願っているから、思うに任せない時、もどかしかったり、苦しかったりするのではないか。
以下引用。

《町の病院の、待合室に行ってみよう。重症の患者もいるだろうに、子供がふざけて走り回っている。どちらかというと、僕は子供に注意をしない母親に腹が立つ方だから、さぞかし、看護婦さんや先生は頭に来ているだろうと思うと、ところが、注意をするどころか、元気だねとか、いたずらしている子がいれば、手伝ってくれてるのなんて話しかけたりするのである。やはり、見ないふりをしてイライラしているより、そういう姿の方がステキである。腹が立つということは、決して、その人に対して腹が立つということではなく、自分がうまく、その場をまーるくすることができないことに、腹が立ちイライラするのである。
こうして商売をしていると、いろんなことがある。近くの商店から両替にくる。もちろん、たまに両替するのはお互い様であるわけだが、それを毎日のように来たり、ひどいのになると、ハイコレといって一万円札をレジの上に置いて、そばにある漫画を読み出す男がいた。最初、なんなのかわからない。本を買うのかなと思って、何でしょうかと尋ねると、「五千円と千円と百円玉」なんていっちゃって、漫画のつづきを読み出すのである。何日か続いて、こちらが嫌味を言うと、それっきり、パタッと来なくなった。来なくなると不思議なもので、たまには、両替に来てくれてもいいのになと思う。》(p50-51「本屋にはいろんな人がやってくる」より)

写真、東洋陶磁美術館にて。
by konohana-bunko | 2007-08-24 21:47 | 読書雑感 | Comments(2)

口女 ―水をわたる

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口女 ――水をわたる     十谷あとり


クレヨンが紙をはみ出る勢ひに海へ海へと伸びる大阪

四貫島島屋春日出つばくらめ大根一本百円の路地

有限会社山本莫大小玄関の金の成る木の鉢枯れやまず

自転車の沈む河口を渡る鳥口笛のやうに鳴く鳥もゐた

   メリーゴーラウンド

ふりむけばとほざかるのにゆくてにはいつもわたしを待つ母のかほ

父は無言に立ち上がりたりわたくしの見えぬところで母を撲つため

さかのぼる曳船いくつ運河にも流れはありぬ見えがたきまで

   安治川トンネル

歩行者の渡れぬ橋のまた一つ掛かりて向かう岸は遠のく

おん あい と口ひらくこそかなしけれ鯔の群れあの中のわたしだ

口女(くちめ)より生るるは口女吾子の唇(くち)にみづかね色のピアスは光る

             「短歌研究」(短歌研究社)9月号 全30首より10首掲載




写真、天保山大橋、大阪から神戸方面へ。
by konohana-bunko | 2007-08-21 21:04 | 空中底辺 | Comments(4)

『青空の方法』 宮沢章夫

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半年ほど前にVillage Vanguardで購入。いかんいかん定価で買っているではないか。
電車の中で読んでいて、「ぐふっ」と笑ってしまって恥ずかしかった、というのは中島らも以来なのだが、宮沢章夫はらもさんみたいに破綻してなくて、ずっとちゃんとした(!)人なのだろうと思う。わたしはどちらもそれぞれに好き。以下引用。

《「子供が生まれる。カメラが欲しい」
写すんだ。生まれた子供を写す。笑ったといっては写し、泣いたといっては写し、ひっくり返ったといっては写しと、忙しくてしょうがない。あの情熱はいったいなんだ。だが、ほんとうに知らなくてはいけないのは、「親ばか欲」や、シャッターを押しまくる「わけのわからない情熱」のことではない。こうしたカメラやビデオカメラとはいったいなにかという問題である。私はそれらをこうまとめたい。
「親ばかマシン」
撮影した写真をコンピューターに取り込み、カラープリンターで葉書にするとすれば、コンピューターもプリンターもすべてが「親ばかマシン」だ。葉書には子供の写真。そして言葉が添えられている。
「三歳になりまちた」
そんなことを三歳の子供が言うものか。
さらに重要なのは、それらがときとして、「親ばかマシン」にとどまらず、もっとべつの装置へ姿を変える不気味さだろう。
「猫ばかマシン」
文字通り猫を写すのである。猫を写真に撮る。一人で楽しむのならまだいい。人に見せ、そしてきっとこう口にする。
「うちの猫だにゃ」》
(p20「ばかマシン」より)
by konohana-bunko | 2007-08-16 22:17 | 読書雑感 | Comments(3)

安宅英一の眼

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夏の畝傍山、車の窓から。畝傍山って『星の王子さま』のウワバミに似ていませんか。

お盆休みを利用して、中之島へ。東洋陶磁美術館「安宅英一の眼」展を見に。4月からやっていたのだが、納涼のためにとってあったのだ。暑い日に、冷房の効いた、薄暗い美術館の中をひそひそと回る楽しみ。
お盆休みなのか、思ったより人が入っていた。ここの美術館のステキなところは、フラッシュを使わなければ写真を撮ってもいいところ。
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普通陶磁の展示は、何時代、どこそこの窯、こういう特徴で、こういうところが特に優れている……という作品解説が延々と続くのだけれど、今回の展示はもとのコレクション主に焦点を当てての紹介になっている。具体的には、そのブツをどうやって安宅英一が入手したか、ということの解説。最初は「はあ」「ほお」と読んでいたが、続くと何だか、お買い物自慢を聞かされているような気分に。ま、でも、会社がなくなってもこれだけのコレクションが残るお買い物なら、立派なものか。
国宝の青磁の壺とか、油滴天目茶碗とか、以前見たことのあるお椀や壺には、「やあ」と挨拶したいような気持ちになる。今回初めて見て気に入ったのは、宋の時代の白磁のお椀。薄手で大きくて、サラダボウルみたい。外側にも内側にも大きな蓮の花がまんべんなく彫り込まれていて、清潔感がある。これやったら、家でも使ってみたいなァ……って、粗忽者やからあかんわ割るわ。

毎日暑い!炭酸水が美味しい。
by konohana-bunko | 2007-08-14 21:45 | 日乗 | Comments(2)

新聞から

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新聞が旧聞になってしまっているが。

■7月29日(日)讀賣新聞日曜版
特集「夢塾」は「ミニコミ誌 一人で発行」。ミニコミ誌(フリーペーパー、リトルプレス)を作る上での3つのアドバイス。
1 赤字出さぬように
2 誠意もって取材依頼
3 置いてくれる書店探す

そして、ミニコミ誌を多く扱っている店の紹介。

【東京】書肆アクセス タコシェ
【京都】ガケ書房 恵文社一乗寺店
【大阪】貸本喫茶ちょうちょぼっこ

ごく短いものだが、書肆アクセスの畠中理恵子店長のインタビューも掲載されている。書肆アクセスの閉店の件についてはひとことも触れられていない。うーん。

■8月7日(火)讀賣新聞夕刊
荻原魚雷さんの「言葉を生きる①」。自分の失言や失態を思い出す時、「きゃっと叫んでロクロ首になる」感覚を忘れてはいけない、という話。

開高健の『耳の物語』にも「ア、チ、チ」と独り言を言うというくだりがあったなあ。わたしの場合は「きゅう」か「ぴゅう」。(って誰も訊いてないって……。)

■8月8日(水)日経流通新聞
中古文庫本の専門店、ふるほん文庫やさんが、紀伊国屋書店など大手書店での巡回販売を本格展開する。「絶版・品切れ文庫ベストセレクションフェア」。1セット1万冊。9月に都内や大阪市でも。販売価格は480~1,480円が中心で、定価を目安とする。

梅田に来るのかな?「定価を目安」と言われるときっとなかなかよう買わんとは思うけど、古手の文庫本がぞろっと並んでいるところは見てみたい気がする。

はー。何か今日のこれ、近鉄特急か新幹線の電光掲示板ニュースみたいやな。
by konohana-bunko | 2007-08-11 22:31 | 日乗 | Comments(0)

『随筆集 孤宴』 葛原妙子 小沢書店

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歌集を出した後、あるところから「『自著自賛』というタイトルで文章を書いて下さい」というオファーをいただいてびっくりしたことがあった。その時は自分の著書を自賛するなんてとんでもない、恥ずかしい、としか思わなかった。「タイトルを変えてもらえませんか」と相手の方に申し出たのだが叶うわけもなく、結局自分のわがままで断ってしまった。今なら平気で書くかもしれない。著者が800字か1200字でほめたってけなしたって、出来てしまった本をどうこうできるものではない。



歌の自作自註というのは曲者で、読むとがっかりすることもある。例えば葛原妙子の

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水

という作品について、作者は、6月の台所で、夕食の準備をしようと使い込んだフライパンを手に取って窓にかざしたのがきっかけでできた、と書いている。おまけにその時、締切を翌日に控えて歌が1首足りなかったということまで丁寧に書き添えられている。(*)
確かにこの歌はわからない部分がいっぱいで、作者に解説を求めたくなる気持ちはよくわかるけれど、正直、この自作註にはがっかりした。こんな所帯じみた解説を読むくらいなら、わけのわからないまま歌だけを鑑賞していた方がよっぽどいい。



『孤宴』には昭和36年から54年にかけての短い文章が45編収められている。以下引用。

《またついでにここで、私のもっとも好ましい歌のあり方を述べるならば、私は歌うことで訴える相手をもたないということである。故に歌は帰するところ私の独語に過ぎない。ただ独語するためには精選したもっともてきとうなことばが選ばれなければならないのである。
こうして私は、歌とは独語の形をとるときにもっとも美しいと信じている一人である。
ところで独語という聴き手や返事を求めない歌が、たまたま他に響いていってその人を感動させることがあり得るのだが、そのような時、私は素直にその幸福をよろこぶのである。
だが告白すると、五・七・五・七・七という古来磨きぬかれた詩型、言い替えればこのような強い束縛の中で、いまの世にながらえているわれわれの内側を独語することはそれほどたやすいことではない、ということである。
したがって歌によって生涯の独語をつづけようとする者は、少し気障な言いかたをすれば召命者のように夜の或る座を占めるのである。そこでは必要上心に叶う言葉を選びとり、言葉の機能の把握に腐心し、腐心するだけではなく、おりおりはからっぽになって放心さえするのだ。そのために当然二人寝の幸福は見送られるだけではなく、ときには更に、あくる朝の、あるいは昼の、無人の数刻を盗むのである。
はばからずに言えば、このような時間泥棒に、こころここに在らざる者に、世のまっとうな幸福などはありえようはずはないのである。

 春の野に霞たなびきうらかなしこの夕光にうぐひす鳴くも  大伴家持
 ひさかたのひかりのどけき春の日にしづごころなく花の散るらん  紀友則

ともにみごとな独白である。うぐいすの鳴く暮れやらぬ光の中で、家持は、ああここにわれひとり、を認識し、友則は、何ごともない春昼にただならず散りいそぐさくらをいぶかしむのである。そしてこれらの歌に一切の返事はないのだ。》

(* 『現代歌人文庫 葛原妙子歌集』国文社所収 「ゆうぐれの水」)



写真、7日(火)、二重の虹。虹が二つ掛かる時は、色が逆になることを知った。
by konohana-bunko | 2007-08-10 21:27 | 読書雑感 | Comments(0)

毛づくろい

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しゅび しゅび
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しゅばばばばばば
by konohana-bunko | 2007-08-07 17:12 | 猫是好日 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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