ようやく秋らしくさわやかになってきたというのに何処にも出掛けない3連休の中日。朝から少しばかり出品作業。出品用の斉藤学の本をぱらぱらしていて、鉛筆の書き込みがあることに気付き、消しゴムを掛け始める。この書き込みがまた多い多い。結局、最初から最後まで読んだのと同じことになってしまう。
2000年頃からの数年、斉藤学(さいとうさとる)や西尾和美を集中して読んだ時期があったので、これらの本にはなつかしさを覚える。確かに、斉藤学の本を読むことで、随分救われた部分があったのだ。
ただ、あれから時間が経ち、今の状況で再読すると、物足りなく思う点がないではない。自分の抱えるさまざまな問題が家族の人間関係に起因するものだとわかったとする。そして、悪しき嗜癖を断ってゆく取り組みをする。でもその先はどうなのだ?家族の病を自分の代で終わらせるだけでいいのか?自分がよりよく生きるためには何をすればいいのか?
まあ、本に向ってそんな問いかけをすること自体が間違ってるか。一生かけて怠けたり試行錯誤したりしながら、あくまでも自分で答えを求めていかなしゃあないんやろね。
夕方、こども用のマンガの棚の整理をする。先程、出品中の本にどうしてもコピーを残したい部分があることに気付き、自転車でコンビニまで行く。涼しい。夜空に十五夜の月。
そんなこんなで本ばかりの一日。
以下引用。
◆人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけがない。20世紀の後半、私たちはいつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認しようとしていた。そして、目前の仕事や名誉やセックスや金儲けを追求してきた。
◆人は少々ブルーな気分で、適度な寂しさを抱えながら生きるのがいい。そんな日々の中でこそ、もう一人の人との出会いが何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡を感じることができるようになる。
(『「家族」という名の孤独』斉藤学 講談社)