大きさは関係ない

22日(木)、大阪市美術館にミラノ展を見に行く。ここの美術館は一昨年の「応挙」、今年春の「唐」に続いて3回目。見て回るが、どうもあまりわくわくしない。人が多いから?それとも聖書やイタリアの歴史についての知識がないから?そればかりでもないようだ。(何でこう、気分が盛り上がれへんのかなあ、応挙や田中一村の方が興奮したよなあ・・・)と無意識のうちに考えていて、気付く。どうも今、自分のベクトルは東洋趣味の方を向いているらしい。しかしそれに今頃気付くとは…。

だが、本当にいいものは、つまらぬ好悪などを軽々と乗り越える。今回の特別展のポスターに使われていたダ=ヴィンチの「レダの頭部」、実物はとても小さな作品だったが、これと出会えただけでわざわざ来た甲斐があった、と思えた。セガンティーニの馬の絵と牛の絵も、地に足の着いた感じがしてよかった。

写真は数日前の西の空。左下にあるフタコブラクダのような山が二上山。
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# by konohana-bunko | 2005-09-25 20:32 | 日乗

ツマグロヒョウモン

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秋の彼岸ということで職場の花壇も模様替え。写真を撮っているところへうまいことツマグロヒョウモンが来てくれた!チョウの写真が撮れるなんて実にいい気分だ。
庭のブッドレア(フジフサウツギ)の花にもいろんな虫が来る。昼間はキアゲハ、アオスジアゲハ。夕方はイチモンジセセリ、スカシバ。時にハナムグリ。でも花が高いところ(地上2mくらい)に咲くので、なかなかうまく写真は撮れない。
ツマグロヒョウモンの食草はスミレの仲間だそうだ。ガーデニングでパンジーやビオラがたくさん使われるためか、秋から春にかけてよく見かける。わたしは長い間、写真に写っている黒白の模様がある方が♂だと思い込んでいたのだが、実はこちらが♀だったことが判明。
(゚Д゚)ガーン。妻の方が黒かったのね…(褄が黒いんだョ!)
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# by konohana-bunko | 2005-09-22 10:00 | 日乗

図書館

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19日(月)、必要に迫られて地元の市立図書館へ。半年ぶりくらいか。建物もきれい、職員の方の応対もよい、返却は駅前のポストでOK、といいことづくめの図書館なのだが、自分が読みたい分野(短歌)の蔵書がやや貧弱なことと、自転車で坂を上って下って20分というのがネックになってなかなか足が向かない。
図書館に行く時は、古い町並の路地を選んで走る。(写真参照。)たばこ屋、呉服屋、洋品店、茶舗、耳鼻科、質屋、下駄屋、瀬戸物屋、床屋、酒屋、駄菓子屋、お寺、などなど。奈良町のような観光地でもないし、失礼ながらさっぱり売れている様子もないのだが、自転車でゆるゆる眺める分には退屈しない。藤原京以来の歴史とからめて、町並みマップを作ってまちおこしなんかしないのかしら。目玉がないからダメかしら。そう言えばこの通りには本屋も古本屋も見当たらないね。
図書館では、ふと目に付いた『クレーン男』(ライナー・チムニク/パロル舎)を借りる。岩波書店版の『森鴎外全集』を借りたかったのだが、岩波版は所蔵していなかった。ないもんは、しゃあないね。11月に県立図書館がオープンするのを待つか。
# by konohana-bunko | 2005-09-20 20:18 | 日乗

本な一日

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ようやく秋らしくさわやかになってきたというのに何処にも出掛けない3連休の中日。朝から少しばかり出品作業。出品用の斉藤学の本をぱらぱらしていて、鉛筆の書き込みがあることに気付き、消しゴムを掛け始める。この書き込みがまた多い多い。結局、最初から最後まで読んだのと同じことになってしまう。

2000年頃からの数年、斉藤学(さいとうさとる)や西尾和美を集中して読んだ時期があったので、これらの本にはなつかしさを覚える。確かに、斉藤学の本を読むことで、随分救われた部分があったのだ。
ただ、あれから時間が経ち、今の状況で再読すると、物足りなく思う点がないではない。自分の抱えるさまざまな問題が家族の人間関係に起因するものだとわかったとする。そして、悪しき嗜癖を断ってゆく取り組みをする。でもその先はどうなのだ?家族の病を自分の代で終わらせるだけでいいのか?自分がよりよく生きるためには何をすればいいのか?
まあ、本に向ってそんな問いかけをすること自体が間違ってるか。一生かけて怠けたり試行錯誤したりしながら、あくまでも自分で答えを求めていかなしゃあないんやろね。

夕方、こども用のマンガの棚の整理をする。先程、出品中の本にどうしてもコピーを残したい部分があることに気付き、自転車でコンビニまで行く。涼しい。夜空に十五夜の月。
そんなこんなで本ばかりの一日。

以下引用。

◆人がこの世にあって、そんなにはしゃいで過ごせるわけがない。20世紀の後半、私たちはいつの間にか寂しさを抱えて生きるという苦痛を否認しようとしていた。そして、目前の仕事や名誉やセックスや金儲けを追求してきた。
◆人は少々ブルーな気分で、適度な寂しさを抱えながら生きるのがいい。そんな日々の中でこそ、もう一人の人との出会いが何ものにも代えがたい温もりになるし、道端の緑の芽吹きに奇跡を感じることができるようになる。
(『「家族」という名の孤独』斉藤学 講談社)
# by konohana-bunko | 2005-09-18 21:24 | 日乗

『こころの旅』 神谷美恵子

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こころの旅 神谷美恵子 日本評論社(1974)

神谷美恵子については、名前だけは知っていたものの読んだことがなかった。今回この本で初めて出会った。
誕生期から死にいたるまでの人のこころの変遷をたどる、という1冊。テーマが大きいためにかなり枝葉を落とした概説となっている。先行者の引用が多いのでこの方面の本を読んでいない自分にはわかったようなわからないような、あるいは退屈なような気もしないでもなかった。ただどんな文章(新聞記事であろうが学術論文であろうが)を読む時も書き手のことばづかいが気になる読み手としては、神谷美恵子の語り口に感銘を受けた。湧き水のような文体だ。以下引用。

◆新生児ははじめ泣くことしかしない。これは泣く原因が多いというよりは苦しみの表現機構が発動されやすい状態で生まれてくるからだろうという意味のことをワロンはいう。生まれたばかりの子が自発的に示す感情が深いみじめさと苦痛であるという事実は、すべての人間に内在する「宇宙的メランコリー」または「世界苦」のあらわれである、とL・ウルフは自叙伝で述べている。少なくともほほえむこと、笑うことはあとから発達してくるという意味で、より高級な「業績」なのだろう。(p44)

◆どのような仕事、学問、業績を生きがいとしてきたにせよ、すべては時とともにその様相と意義が変わって行くものだ。自分のあとからくる世代によってすべてがひきつがれ、乗り越えられ、変貌させられて行く。その変貌の方向も必ずしも「進歩」とは決まっていない。分散か統合か、改善か変革か廃絶か、歴史の動向と人類の未来はだれが予見できるであろう。自分の過去の歩みの意味も自分はもとより、他人にもどうしてはっきりとわかることがあろう。その時その時を精一杯に生きてきたなら、自分の一生の意味の判断は人間よりも大きなものの手に委ねよう。こういうひろやかな気持になれれば自分の過去を意味づけようとして、やきもきすることも必要でなくなる。いたずらに過去をふりかえるよりは、現在まわりにいる若い人たちの人生に対して、エリクソンのいうような「執着のない関心」を持つこともできよう。彼らの自主性をなるべく尊重し、自分は自分で、生命のあるかぎり、自分にできること、なすべきことを新しい生きかたの中でやって行こう、という境地になるだろう。(p170)

◆地球上の生と死は互いに支え合う関係にある。生命の進化も、多くの生命の死の上に成り立っていることは明白である。おそらく生と死とは、さらに高い次元の世界で調和しているにちがいない。(p218-219)
# by konohana-bunko | 2005-09-17 10:54 | 読書雑感

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり