おでん

うちでは「おでん」は「おでん」と呼んでいる。こどもの頃住んでいた北摂でも「おでん」。「関東煮」(かんとだき)という呼び方を知ったのは中河内に越して来てから。石切神社参道の店の暖簾に「関東煮」と書いてあるのを見て(どんな料理なんかな?)と不思議に思ったのが最初。
# by konohana-bunko | 2015-03-10 19:30 | 日乗 | Comments(0)

歌集『中つ國より』 田中教子

歌集『中つ國より』 田中教子 文芸社(2013)より、以下引用。

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生と死のはざまに浮かぶ影として水族館の夜をめぐれり

トウモロコシに粒の数だけ髭があり生の数だけ死の数はある

喘息の子のかたわらに眠る夜ゆめに巨大な樹が生えてくる

論文の中より「人」が透けて見ゆ 乾いている人 しめっている人

どのように呼んでも返事のない雲は朝の息子のようなり おーい

夢のなかに夜ごとに伸びゆくビルあれば覚めてしばらくくらくらとせり

冬の川にうつす我が影 きらきらと生れ日時の分からぬ石たち

過去の世に幾度も親を殺めたる我が魂に雪が降り積む

塩壷に水湧くようなさみしき日 島影は父海原は母

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近しい人――血のつながりのある「うから」へのまなざし、それをうたに詠むときの構え方にシンパシーを感じた。

・火のような楓の一樹かなしくてならないときはその幹を抱く

という歌もあった。一読、(格好いいなあ)と思った。絵になる歌というべきか。切実さの伝わるいい歌だと思うし、こううたいたくなる気持ちには共感できる。でも、わたしはこういう風には(今は、たぶん)うたえない。
「うたいあげる」のが相応う歌人とそうでない人がいるのではないか。そんなことを考えさせられた。
# by konohana-bunko | 2015-01-10 20:25 | 読書雑感 | Comments(0)

『白洲正子を読む』 求龍堂 より

『白洲正子を読む』
多田富雄 赤瀬川原平 河合隼雄 車谷長吉 前登志夫 渡辺保 田島隆夫 青柳恵介 山崎省三 安土孝 白洲正子 藤井邦彦著 求龍堂(1996) より、以下引用。

平成六年(一九九四)八十四歳
十一月、『風姿抄』を世界文化社より刊行。四十年前から最近までの随筆集である。
《古いものを読み返してみると、本質的には今書いていることとまったく同じなので驚いている。……人間に進歩はない。進歩するのは技術であって、生まれながらの素質を発見し、少しずつ深めることしか我々にはできない》(『風姿抄』あとがき)
# by konohana-bunko | 2015-01-09 19:56 | 読書雑感 | Comments(0)

あけましておめでとうございます

2015年も、みなさまにとってよき年となりますようお祈り申し上げます。

姑に教えてもらったうちのお雑煮は
白味噌仕立ての丸餅雑煮。
具は、雑煮大根、金時人参、子芋、百合根。
仕上げに三つ葉と柚子の皮。
庭で作った四十日大根、めでたくお雑煮に入りました。

今年もいろいろ育てて食べよう!
# by konohana-bunko | 2015-01-03 16:33 | 日乗 | Comments(2)

知らないことを思い出す

何か書かないとこころが干からびる。かと言って、くだらないことを書き散らしても、後でこころがささくれだつだけ。わたしはただの容れものだ。書きたいという思いだけがあって、具体的な中身が何もない。

ことばの遅いこどものように、しゃがみこんで土や虫や花をぼんやり見ている。何も感じていないわけではないのだ、断じて。こころはいつも動いている、逆に、感じ過ぎて苦しいくらいだ。しかし、どんなに情緒や情趣が渦巻いていたとしても、表現しなければ、それらは「ない」のと同じなのだ。

知らないことを思い出すのと同じ行為だ。うたを詠むということは。
# by konohana-bunko | 2014-12-03 19:07 | 空中底辺 | Comments(3)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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