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読書メモ 高木佳子歌集 『青雨記』

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高木佳子歌集『青雨記』(いりの舎/2012年)より、以下引用。

跳び箱の帆布ましろく開脚の少女は一瞬つばさある魚

少女冷ゆ はつかにみづを匂はせて白き靴下はきしそのとき

湿りたる耳いぢりつつスタイラス・ペンにて描きゆく鳥

蟻の壜忘れてありぬ 今のいまたふれて蟻のあふれむとする

てのひらに蟻歩ましめてのひらに限りのあれば戻りきたりぬ

橋脚のつけねのあたり時折に水あたるごと生きがたきかな

刈られたる草の全きたふれふし辺りの空気あをみ帯びたり

湿りたるゑのころ折りて雨止みし夕べを帰る帰るとは何

この椅子の脚いつぽんのゆらゆらとゆるみゐるなり歩き出すらむか

無音なるテレビのなかに跳躍の棒高跳びの選手うらがへり

ただけふを古びゆくなり皿のうへ蜂蜜パイの倒る殆ど

雨後の海のさびしさ 濁りたる青にふたたび陽の射すまでを

ひやしんす水に浸してそのみづの下のあたりを覆へりくらく

あざあざとクレヨンの朱よ 白き紙、灰の雲、青の空まで

このひとに於いて吾はかあさまと呼ばるるほかになくてかあさま

あへぐ人そこにゐしかとみるかたに過熟の苺ただ転がりぬ

父はいま燃えてをらむよ菓子あまた皿に盛られて水色ももいろ

いふなれば負けつ放しの博奕打ちであつたのだ、父といふ人は

右耳の鼓膜がふるへすぎゆきに父に割られし鼓膜がふるへ

むらさきの栞の紐を小さなる馬のたづなを引くごとく引く

しづみゆく糖の崩れを見送りぬアールグレイのその深さまで

ほそき舌挿しいれしまま炎天のしばらくをゐる夏蝶の背を

空は空、ひばりひとつを含みしをけふのこととて記すことなく

海嘯ののちの汀は海の香のあたらしくして人のなきがら

熱傷も瘢痕もなきまつしろな曝されがあり垂るる白蓼

  小名浜港に誰かが看板を立てた
〈心まで汚染されてたまるか〉さうだとも、わたくしたちは真つ白な帆

魚(うろくづ)よ、まばたかざりしその眼もて吾らが立ちて歩むまでを 見よ
by konohana-bunko | 2013-05-18 20:45 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 卯月

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『古代ハワイアンの教え フナ:三つの自己に秘められたギフト 癒しと祝福のホ・オポノポノ』  A.J.マクドナルド 山崎直仁訳  春秋社
『八木重吉・詩の祈り』  四竃経夫編著  宝文館出版
『精神科養生のコツ』  神田橋條治  岩崎学術出版社  (再読)
『しろたへ』(歌集)  佐藤佐太郎  短歌新聞社文庫
『軽風』(歌集)  佐藤佐太郎  短歌新聞社文庫
『自分の居場所のみつけかた』  斎藤学  大和書房
『木をかこう』  ブルーノ・ムナーリ作  須賀敦子訳  至光社国際版絵本
『苦界の救われ』  村田正雄  白光真宏会出版局
『弥縫録 中国名言集』  陳舜臣  中公文庫
『叡智のしずく』  モーナ・ナマラク・シメオナ/イハレアカラ・ヒューレン/カマイリ・ラファエロヴィッチ  平良アイリーン訳  SITHアジア事務局
『いいことあります』  ソーニャ・ソーケット  伊達尚美訳  デジキューブ
『司馬遼太郎の歳月』  向井敏  文藝春秋



『弥縫録』「危うきにおもむけ」の項に、竹島のスルメの話が出て来て面白かった。以下〈 〉内は引用。水産物の輸出入の歴史とか、こういう話聞くの好き。 

〈竹島でとれるスルメは、いまはどうか知らないが、戦前はじかにその身に縄を通して干すので穴があいていた。竹島の穴あきスルメといって、東南アジアの華僑も「竹島有孔*」(*=魚偏に尤)と親しんで、誰も日本のスルメであることを疑わなかったのである。〉



写真は3月26日に撮ったもの。季節は巡る。どんどん巡る。
by konohana-bunko | 2013-05-11 09:28 | 読書雑感 | Comments(0)

読書メモ 大口玲子歌集 『トリサンナイタ』

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大口玲子歌集 『トリサンナイタ』(角川短歌叢書/2012)より、以下引用。

筆先を水で洗へばおとなしく文字とならざる墨流れたり

この夜を耕されむと横たはる人体ありて人を待ちをり

酔別ののちの李白を長く思ひ独りのわれは氷を握る

大聖堂小聖堂ある教会の小聖堂に木のキリストが居る

「下駄履きは禁止」と掲げ雪の日の東北大学附属図書館

乳頭に馬のあぶらを塗りながらをりをり馬のまばたきをしつ

寒色のピカソ「母子像」八本の手首足首いづれも太し

雪の夜おもむろに子が開きたる絵本のきつねにきつねのにほひ

一時間六百円で子を預け火星の庭で本が読みたし

広瀬川おほかた凍り白鳥が泳ぎ割りたるひとところあり

瓦礫のなかにあまたの硯ありしこと電話に告げ来し夜を忘れず

引用終わり。
「吾亦紅」の章(幼児虐待のニュースを詞書にした一連)は読んでいるこちらも息が苦しくなった。
by konohana-bunko | 2013-04-28 20:30 | 読書雑感 | Comments(0)

『私の中の地獄』  武田泰淳

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武田泰淳『私の中の地獄』(筑摩書房)を読んだ。重い本だった。人間がみしっと詰まっていた。重いのは嫌いではない。ただいざメモを取る段になると、どこをどう、と選ぶ前に、錘がつけられたみたいに気持ちがずーんと本の中に沈んでしまって、(はい、ここと、ここね、はいはい)というふうに抄出することができなかった。それで読み終えてから長いこと机の横に積みっぱなしにしていた。
巻頭の表題作「私の中の地獄」に書かれているのは、父母の老いと死。妹の死。伯父の遺体の解剖に立ち会ったこと。犬を食べたこと、犬を愛玩すること。

以下引用。

《きれいなもんが好き。きたないものがきらい。これが、人間の本性だ。だが、きれいな女がほんとうに、きれいなのか。きたない女がほんとうに、きたないのか。オシャカ様の目からすれば、彼女たちは平等に、やがて変化する仮の姿にすぎない天において、全くかわりがなかった。
ただ、心がかりなのは、おそらくシャカ族の王子、シッダルタの結婚した相手の女性は、古代インド人の感覚によって「美女」と認定されたオンナであったのは、まちがいないことである。いや、それより以前に、おシャカ様の父上は、もっとも美しき母上をえらび、そして美しき我が子を生みなさった。これまた、まちがいないのである。
おシャカ様が、私の伯父など足もとにも及ばぬ美丈夫だったことを、私は信じて疑わない。仏典には、くりかえし、ホトケの姿の荘厳が書きつらねてある。みにくいホトケ、きたならしいホトケを描いた仏書には、お目にかかったことがない。
だが……。だが、原始仏教、根本仏教、教団の保持をねがわない、生まれたばかりの新鮮さを失わない仏教にとっては、地上世俗の美醜の判断を、ホトケにまでくっつけることに反対だったのではあるまいか。》(p17-18 「私の中の地獄」より)

《歯がなくなっても、肉ずきの私は、肉食を非難しようなどとは考えていない。だが、ニクを食べるとは、一体、いかなるヒューマニズムと結びつくのかな、と考えることがある。
かうて、目の前で撲殺された他家の犬を、数時間後に食べた私は、やがてドイツ種の子犬を飼い、むやみに可愛がって、ガン手術のため入院までさせた。動物に対する愛情とは、そもそも何なのだろうか。掬いがたい矛盾が、ここにある。
動物愛護週間が、くりかえされるのは、おそらく正しいであろう。弱い動物を無意味にいじめることが良いはずはないのだから。
肉屋さんにも、魚屋さんにも何の罪もありはしない。彼等がいてくれるおかげで、私たちは平気で、おいしい生物の死体をたべることができるのだから。もしも、真の罪人があるとすれば、他人に殺させておいて、自分はそれと無関係なような顔つきで、愛犬や愛猫だけ可愛がる「良心ある人」であろう。そして、まちがいなく、私もその一員なのだ。》(p24-25 「私の中の地獄」より)

《仏像のひじょうにうつくしいものをながめて、ありがたいとわたくしもおもいます。じっさいにうつくしいし、こういうものを保存しなければならない。金閣寺を訳ようなばかなまねはしたくない。ことに寺院に育っていれば、仏像をけがしたり、あるいは寺院をけがしたりするのをひじょうにきらいます。
戦国時代の歌舞伎をみると強盗が仏像をおので打ち割ってたき木にくべる場面がよくあります。仏像というのはひじょうに完成された美ですが、それをたき木にしてしまう。わたくしはそれをみてどきっとする。しかし、そのどきっとするのは、けっして強盗が仏像をこわしたことだけではない。もしかしたら強盗がこわさなくてもその仏像はこわれるんではないか、という変化の哲理が、ぼくのなかに同時に浮かびあがってくるからどきっとする。もしその強盗をとがめるだけだったら、ただ単にどきっとするだけだけれども、そういうことを自分もこころのどこかで是認しているのではないだろうか、強盗みたいに仏像を割るようなことはしないけれども、なにか天然自然の力でそれが消えうせることもまたありうるのではないか、という気持ちがこころのなかにある。それでどきんとする。》(p71 「文学と仏教」より)

一旦引用終わり。
普段人が見ないようにしている、ものごとの裏側、心の動きの裏側、影の側を、他人のものを見るような醒めた目で見て、書いたもの。自分も普段考えないでいる(考えないようにしている)ことだから、突きつけられると確かに気持ちは苦しくなる。だからといってこうした影の側について考えないでいていいとも思えない。今わたしに、この重苦しさを感じる必要があったから、この本を読んだのかもしれない。最後まで、読み通せたのかも知れない。
(読むくらいが何であろう、気楽なものではないか、これを書くことに比べれば。)



別の所から、また引用。

《「展望」(昭和四十六年六月号)の座談会「『戦後派』前史1」で椎名氏は次のように語っている。
それは、加藤武雄などの小説入門書を読んださいの若き日の感想である。
「今になれば無理もないと思うけれど、そのときは何か違うって感じがいつもするんだな。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くとうようなことを書いちゃいけないと、どの本にも書いてあるんだね。それをしなかったら人間死んじゃうじゃないかと思う。どうしてそんな重大なことがいけないのかわからない。いちばんいやな人間の苦悩を書けと言ったって、苦悩は人間にとっていちばん要らないことでしょう。わからんことだらけでね」
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社へ行くというようなことは、毎日くりかえし昨日から明日へとつづいて行く、まちがいのない現実である。そのあたりまえな現実に耐えている勤人みとって、小説入門書に示された文学的苦悩より先に、それほど苦悩ぶらない、何も特別な点のない苦悩があり、それを抜きにしては生きて行けないはずである。それなのに、「書いちゃいけない」と教えられ、しかも自分にとって最も必要でない、一ばんイヤな苦悩を書けとすすめられたときの、生活者のとまどいは簡単なものではあるまい。
とりわけ、それら平凡な俗事に新鮮な表現をあたえる方法を知らなかった文学志願者にとって、このとまどいは行手をさえぎる壁であり、拒絶であり、それだけでうんざりする難局だったにちがいない。》(p225-226「誤解の効用」より)

引用終わり。
泰淳さんがここで書いている小説の話を、わたしはつい、短歌に置き換えて読んでしまう。
平凡な俗事の中にある些細な気付きを歌に詠めたら、と短歌を始める人がたくさんいることを思う。どの新聞の、どの雑誌の投歌欄にも、日常を詠んだ歌が途絶えることなく載っている。それそのものに善悪はない。ただ、それがブンガクとなり得るかどうかはまた、別の問題、個々の歌の問題である。
かといって、「一ばんイヤな苦悩」の方も、簡単に歌に詠めるようなものではないだろう。ときに、人を歌に向かわせる圧にはなりそうだけれども。
ブンガク者だって生身の人間である以上、ブンガクになろうがなろうまいが、日常を生きなければならない。まっとうな社会生活者としてあり続けることは、それだけで一大事業である。それを、こなしつつ、一ばんイヤな苦悩とやらを脳底に常に抱え、なおかつあれやこれやの新鮮な表現を探求しようとする……。この文章を読んで、そんなことを考えた。やれやれ、ブンガク的な歌を詠もうだなんて、ほんと、もの好きな!
by konohana-bunko | 2013-04-07 08:53 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 弥生

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『しおだまりのいきもの』(絵本)  冨田百秋  福音館書店
『きゅっ きゅっ きゅっ』(絵本)  林明子  福音館書店
『シルバーバーチのスピリチュアルな生き方 Q&A』  スタン・バラード ロジャー・グリーン共著  近藤千雄訳  ハート出版
『いのちの食べかた』  森達也  理論社YA新書 (よりみちパン!セ)
『眠りながら巨富を得る』  ジョセフ・マーフィー  大島淳一訳  産能大学出版部
『かけがえのないもの』  養老孟司  白日社
『負けるが勝ち、勝ち、勝ち!』  萩本欽一  廣済堂新書
『くさはら』(歌集)  朋千絵  本阿弥書店
『日々是布哇』  デブラ・F・サンダース  北山耕平訳  長崎訓子絵  太田出版
 
by konohana-bunko | 2013-03-31 10:28 | 読書雑感 | Comments(0)

『草の庭』 小池光

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小池光第4歌集『草の庭』(砂子屋書房 1996)より、以下引用。



荒物屋の店さきにして釜ひとつ動かざるまま夜に入りゆく

としよりのからだは手ぶくろのにほひすとわが子がいへるときにかなしも

あぢさゐのつゆの葉かげに瓦斯ボンベこゑなく立てり家をささへて

おびただしくかたつむりゐて泣かむとすげに遠き日のあぢさゐのはな

  団地四階畳替へ
なげおろす畳はときにふはりとし道に落ちると埃もたたず

子供部屋に歌推敲す子供ゐぬ子供部屋にてわれはやすらぐ

窓枠の四角い空にひだりより三番目の雲さかんにうごく

歩み初めたるこどもにてあゆみゆき電信柱をしきりに叩く

昭和三年測量五万分の一「寒河江」かなしもよ寺の数かず

煙草屋はむかしのごとく店土間の空きのはざまに自転車しまふ

うすぐらき小路に入る春昼の鳥かご提げし宦官ひとり

春くれば軒下ひくき荒物屋天牛印軍手をぞ売る

こころよりうどんを食へばあぶらげの甘く煮たるは慈悲のごとしも

ふりかへり見ればめがねの知晴(ともはる)がひとり鉄棒にぶら下がりをり

朝礼に迷ひこみ来し小犬(しようけん)に女子整列のしばし乱るる

ふりかへり見しとき雪の中にしておみくじ箱の赤は濡れたり

マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す

きたるべき夜を前にして石段の端とこしへに運河に浸る

川しもに傾きふかく杭はたつ降りくる葦をせつにもとめて

通勤快速ラビット号に間のありて眼はあそぶ晩唐李商隠の詩

ふとん打つおともいかにも春となり街上に横たはる縄一本

行くみづのながれにくだる石階にセキレイ降りて草川といふ

棒状のものはたためる傘にしてはこびながらにわが影うごく

残年の二人小声にしてをれる競輪懺悔もわれは聞きゐる

犬猫はすがしきかなや成長ののちひとたびに親を忘るる

電信柱のかげに夜をゐる自転車の尻へあらはにかなしきごとし



「めがねの知晴」という、固有名詞。
「知晴」とだけ出されると、ひとりよがりになるかもしれないのに、「めがねの」と付くとなぜか(ああ、あの)と思わされる。
屋号のような「めがねの」が、妙な説得力を発揮する。このことばに、未知の人物に親しみを持たせる力がある。
この知晴の歌や、〈佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず〉(『日々の思ひ出』)を読むと、矢玉四郎の『はれときどきぶた』に出て来る「おできはれ子のばかたれ おできがはれてしまえ」というくだりを連想してしまう。

昨年の写真。昔ながらのロウバイの花。
by konohana-bunko | 2013-02-18 23:28 | 読書雑感 | Comments(0)

日高堯子歌集 『雲の塔』

日高堯子歌集 『雲の塔』 (角川書店 2011)より、好きな歌を気の向くままに、以下引用。


たまごの殻おもとの鉢にならべつつふと夢を見ぬ身体にぬくく

顔半分ひかりのなかに消えながらとら猫きたり秋のくさむら

春疾風 不忍池を吹きぬけてわたあめを、顔を一瞬に消す

なかへちへ入る田辺は口熊野 春のきのこが白傘たてて

岸辺には犬が待ちをり雌犬なり乳房に斑あり母かもしれぬ

坊主めくり母とする日のひだまりの赤いざぶとん黒いざぶとん

胎蔵界曼荼羅いでてゆふやけの春の畑に葱とりにゆく

雨あがりの茸のやうにぬきぬきとならぶ力士らももいろの四股

八房に懸想されたる伏姫の顔すでに犬、犬のさびしさ

いただきにキザキザ三つゑがきたるわが幼日の富士山かなし

去年の破魔矢火に投げこめばもえあがる刹那すずしき鈴なりにけり

白間津から忽戸まで花の道5kmきんせんくわたんたん、すとつくぽうぽう

水神家 菅生家 天羽家 みな美しき姓なれど今日の葬の立て札

をちこちに蜜蜂の巣箱がおかれゐて柩のやうだ春のげんげ野

老い母に顔よせ父がなにか問ふベッドのめぐり夜の蛾、羽虫
by konohana-bunko | 2012-11-18 23:27 | 読書雑感 | Comments(0)

前登志夫 『青童子』

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前登志夫歌集『青童子』(短歌研究社 1997)より、以下引用。



夜となりて雨降る山かくらやみに脚を伸ばせり川となるまで

炎天に峯入りの行者つづく昼山の女神を草に組み伏す

秋の日の障子を貼りて昼寝(ひるい)せり国栖びと漉きし紙のきりぎし

さくら咲くゆふべとなれりやまなみにをみなのあはれながくたなびく

朴の葉の鮓をつくりて待ちくるる武蔵村山かなしかるべし  司修氏に

神童子(じんどうじ)の谿に迷ひてかへらざる人ありしかな 鹿ありしかな

いまははやたのしきことの淡くしてイースター島の石人恋ふる

わが犬は悪しき犬なり山行ける主人(あるじ)を捨てて村をうろつく

往きてかへるくるしみなれや春畑(はるばた)にひかりをはじき硬き蟲来つ

髭籠(ひげこ)にぞ盛りあげたりし野の花を石となりゐる母に供へつ

ゆうらりとわれをまねける山百合の夜半の花粉に貌(かほ)塗りつぶす

炎天を運ばれてきし野葡萄のつぶら実守(も)ればわれは眞清水

虔十の死にたるのちぞ虔十の育てし木木は人憩はしむ

百済観音提げてゐたまふ水瓶(すいびやう)をあふれこぼるる春の日ありき

さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり

ことしまた梟啼きぬわたくしの生まれるまへの若葉の闇に
by konohana-bunko | 2012-10-24 19:35 | 読書雑感 | Comments(0)

読書の記録 長月

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『Yの森』(歌集)  吉野裕之  沖積舎
『王のテラス』(歌集) 寺島博子  ながらみ書房
『まりーちゃんとひつじ』(絵本)  文と絵 フランソワーズ 訳 与田準一 岩波書店
『強く生きるために』  美輪明宏  主婦と生活社
『やまなしもぎ』((絵本)  平野直再話  太田大八画  福音館書店
『もりのなか』『また もりへ』(絵本)  マリー・ホール・エッツ ぶん・え  まさきるりこ やく  福音館書店
『問題解決のための瞑想法』  天外伺郎  マキノ出版
『おひさまがいっぱい』(絵本) 詩 よだじゅんいち 画 ほりうちせいいち  童心社
『青童子』(歌集)  前登志夫  短歌研究社
『にいさんといもうと』(絵本)  文 シャーロット・ゾロトウ 絵 メアリー・チャルマーズ 訳 矢川澄子 岩波書店
『御馳走帖』  内田百閒  中公文庫
『ところで、あなたは…?』  やなせたかし  三心堂出版社
『こころの科学セレクション 依存と虐待』  斎藤学編  日本評論社
『ガンディー 魂の言葉』  浅井幹雄監修  太田出版
『神道 感謝のこころ』  葉室賴昭  春秋社 
『雲の塔』(歌集) 日高堯子 角川書店 角川短歌叢書

百鬼園先生は読んでいて何故かだんだん腹が立ってくることがままあるのだけれど、『御馳走帖』は素直に楽しかった。岡山のお寿司(ちらし寿司)、美味しそうだった。福武文庫の『まあだかい』と並べておくことにする。

写真、江津良浜にて。
by konohana-bunko | 2012-09-30 23:50 | 読書雑感 | Comments(0)

9月26日

こしらえたもの さつまいもごはん しめじとカラーピーマンの炒めもの
さつまいもは別にゆでて、ごはんに混ぜようと思い、さつまいもを洗って刻む前に、うっかり皮を全部剥いてしまった。皮の赤色がなくなってしまったではないか。次回は皮付きにすること。胡麻塩をいっぱい振って、おにぎりにすること。
読んでいる本 葉室賴昭『神道 感謝のこころ』

詠みたいことの断片が、ふわふわと浮いては消え、浮いてはちぎれ。これ、歌になるかな、ならへんかな、とぼんやり眺めている。
by konohana-bunko | 2012-09-26 23:56 | 日乗 | Comments(0)

何もないところを空といふのならわたしは洗ふ虹が顕つまで


by このはな文庫 十谷あとり
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