『汀暮抄』 大辻隆弘
2012年 08月 14日
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人あらぬ屋上階にのぼりきて銀杏の錐の全貌を見る
窓の辺に逆さに立てむとするときに清く鳴りたる牛乳の壜
つくづくと歌の読めない女かなびらびらと赤き付箋を貼りて
漂転暮帰愁ふといへる詩句ひとつわが同年の杜甫の嘆きに
ハンガーを左にずらし干すシャツのひらめきのなかに妻の朝あり
名古屋から那覇ですといふ声がして甘やかにまどろみが誘ふ
みづあさぎいろの曇りが夏暁の南の窓を占めゐたるのみ
ひとつかみほどの太さの夕かげが角度を帯びて部屋をつらぬく
舟板に鵞と豚を載せあやふくも棹をあやつる画中の一人
文政の四年出島に渡来せし駱駝の雌雄が見あげたる空
春の夜にこころやさしく思ふかな種子郵便の割引なども
東京に往反をせし初夏の二日がほどに麦は色づく
夕空の高きに吹かれゐる欅あかるさはたましひのはつなつ
ファックスが吐くあたたかき紙の上に玉城徹のけさの訃を知る
ニーチェにはあらずと告げて出典を糺したまひきわれの批評に
ちりぢりになりたる「うた」の門弟のそのひとりなる女の泣くこゑ
十代の玉城徹の歌を読む日脚ののぶる部屋に坐りて
袋綴ぢの「多摩」のページをおそるおそる刃先に裂きて読み進めたり
小春日のひかりを裏返すやうに白木の椅子にニスを塗るひと
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大辻さんのお名前の辻の字、正しくは点がひとつの「辶」です。
写真は興福寺にて。