『草の庭』 小池光
2013年 02月 18日
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荒物屋の店さきにして釜ひとつ動かざるまま夜に入りゆく
としよりのからだは手ぶくろのにほひすとわが子がいへるときにかなしも
あぢさゐのつゆの葉かげに瓦斯ボンベこゑなく立てり家をささへて
おびただしくかたつむりゐて泣かむとすげに遠き日のあぢさゐのはな
団地四階畳替へ
なげおろす畳はときにふはりとし道に落ちると埃もたたず
子供部屋に歌推敲す子供ゐぬ子供部屋にてわれはやすらぐ
窓枠の四角い空にひだりより三番目の雲さかんにうごく
歩み初めたるこどもにてあゆみゆき電信柱をしきりに叩く
昭和三年測量五万分の一「寒河江」かなしもよ寺の数かず
煙草屋はむかしのごとく店土間の空きのはざまに自転車しまふ
うすぐらき小路に入る春昼の鳥かご提げし宦官ひとり
春くれば軒下ひくき荒物屋天牛印軍手をぞ売る
こころよりうどんを食へばあぶらげの甘く煮たるは慈悲のごとしも
ふりかへり見ればめがねの知晴(ともはる)がひとり鉄棒にぶら下がりをり
朝礼に迷ひこみ来し小犬(しようけん)に女子整列のしばし乱るる
ふりかへり見しとき雪の中にしておみくじ箱の赤は濡れたり
マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
きたるべき夜を前にして石段の端とこしへに運河に浸る
川しもに傾きふかく杭はたつ降りくる葦をせつにもとめて
通勤快速ラビット号に間のありて眼はあそぶ晩唐李商隠の詩
ふとん打つおともいかにも春となり街上に横たはる縄一本
行くみづのながれにくだる石階にセキレイ降りて草川といふ
棒状のものはたためる傘にしてはこびながらにわが影うごく
残年の二人小声にしてをれる競輪懺悔もわれは聞きゐる
犬猫はすがしきかなや成長ののちひとたびに親を忘るる
電信柱のかげに夜をゐる自転車の尻へあらはにかなしきごとし
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「めがねの知晴」という、固有名詞。
「知晴」とだけ出されると、ひとりよがりになるかもしれないのに、「めがねの」と付くとなぜか(ああ、あの)と思わされる。
屋号のような「めがねの」が、妙な説得力を発揮する。このことばに、未知の人物に親しみを持たせる力がある。
この知晴の歌や、〈佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず〉(『日々の思ひ出』)を読むと、矢玉四郎の『はれときどきぶた』に出て来る「おできはれ子のばかたれ おできがはれてしまえ」というくだりを連想してしまう。
昨年の写真。昔ながらのロウバイの花。