四十数年ぶりに『高村光太郎詩集』を引っ張り出して読んでみた。
大方の詩はすっかり忘却していたが、覚えていたもの、数行をはっきりと思い出せるものもあった。中学の授業で読んだ(読まされた)「道程」「冬が来た」「ぼろぼろな駝鳥」。高校一年の一学期に読んで、異様に胸が苦しくなった『智恵子抄』の「樹下の二人」「風にのる智恵子」「山麓の二人」など。
高村光太郎の詩は力強くてわかりやすい。そして随分あどけない。悪口で言うのではない。ストレートな力強さとわかりやすさ、そこに見え隠れするあどけなさ無邪気さが美質だし、作品の生命力の源となっている。
ただ、今の自分の眼で読み直すと、「道程」は堂々としすぎて気恥ずかしいし、「ぼろぼろな駝鳥」はちょっとスローガンみたいに感じられてしまう。『智恵子抄』の諸作品は、高校生の時は素直に恋愛の苦しさうつくしさだけを享受できたが、今となるとつい(智恵子さんはどう思っていたのだろう、彼女が彼女の立場からことばを発することができていたら、それはどんなことばだっただろう)などと考え込んでしまう。男性の芸術家が、女性をミューズとして崇めうつくしい作品を生み出す。それは芸術という大義名分のもとに彼女を消費し、彼女の生を歪めたり損ねたりすることにつながりはしないか。
今あらためて詩集を読んで、こころがのびのびと温まると思ったのは、「わが家」、「下駄」の二篇。個人的な好みと言ってしまえばそれまでだが、このように小さな、さりげない詩がいいと思うのだがどうだろう。
下駄
地面と敷居と塩せんべいの箱とだけがみえる。
せまい往来でとまつた電車の窓からみると、
何といふみそぼらしい汚らしいせんべ屋だが、
その敷居の前に脱ぎすてた下駄が三足。
その中に赤い鼻緒の
買い立ての小さい豆下駄が一足
きちんと大事相に揃へてある。
それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
『高村光太郎詩集』伊藤信吉編 新潮文庫 (1950年刊)より