『硝子戸の中』 夏目漱石
2006年 10月 02日
『硝子戸の中』に書かれている記憶の中の母、また身辺から失われていった「江戸」の風物に対する愛惜は、静謐で、うつくしい。
以下引用。
その時美しい月が静かな夜を残るくまなく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄の音はまるで聞こえなかった。私はふところ手をしたまま帽子もかぶらずに、女のあとについて行った。曲がり角の所で女はちょっと会釈して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と言った。「もったいないわけがありません。同じ人間です」と私は答えた。
次の曲がり角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた言った。私は「ほんとうに光栄と思いますか」とまじめに尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と言った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅のほうへ引き返したのである。(『硝子戸の中』「七」より)